宝暦2年(1752)

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宝暦2年17523月諸国貨物の米沢・山形への輸送は皆、酒田湊より最上川を通して川船で運送する。
この頃、酒田の問屋元と川船方とがひそかに謀り、貨物を過載し、船数を減少し、利を計る。そのため破船が頻繁となり、損亡が多く出る。船町の荷主総代阿部孫市等が酒田に来て、問屋元小田屋治右衛門等に迫りこれを調査させる。酒田では口上書を出して陳謝する。(船町村阿部文書)
8月21日植林功労者佐藤藤左衛門が没する。61歳。元禄5年に生まれ、子藤蔵とともに藤崎村に移住して遊佐町西山砂丘地の植林に尽す。
11月18日本間光寿が座頭(盲目者)連判貸を創始する。(市史史料篇五)
11月城代酒井図書が中老に転じ、松平甚三郎久武が城代となる。
11月入牢者の病気治療はいままで町医下村正仙であったのが病死したため、今後は町医の月番療治と定める。
一ノ町池田藤九郎が高瀬畑村一帯を百両で買い、再開発を行う。(遊佐町史資料五)
この年内町の佐竹弥右衛門に藩庁より鵜渡川原地域の最上川鮭大網を委任される。(荘内経済年表)