宝暦4年(1754)

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宝暦4年17541月7日鶴岡の小寺信正が没する。73歳。太宰春台の門下で文武にすぐれる。著書に『荘内物語』『志塵通』その他がある。
2月17日出町から出火して204戸を焼失する。(酒田港誌)火事
2月奥羽諸侯が酒田湊における定蔵宿人名を申啓する。(大石田文書)
4月町奉行の城米出船見張小屋を大浜にたてる。(酒田港誌)
7月晦日本間光寿は御肴蔵地を取得し、船場町下蔵と一区の敷地とし、建物を増築し、古作(宗久)をここに分家する。(市史史料篇五)
8月19日本間庄五郎光寿が没する。法名種徳院釈宗丹。63歳。(酒田港誌)
9月13日観音小路から出火して389戸を焼く。つぶし屋21戸。(上に同じ)火事
11月本間光丘が家督をつぐ(23才)。幼名久治・友次郎・久四郎、仕官後四郎三郎、俳名、其山、養老観蓬莱舎。(市史史料篇五)
ときの天王(八雲神社)別当文殊院が植林に熟練していたところから、堂社とともに八軒町からいまの浜畑床浦稲荷神社の所に移転して植林に従事する。