宝暦5年(1755)

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宝暦5年17552月元庄内藩士海向寺の富樫忠海(一世木食上人)が没する。58歳。元禄11年庄内藩給人富樫丈右衛門の二男として生まれる。深く湯殿山を信仰し、元文年間注連寺で出家得度し、延享3年海向寺の住持となる。仙人沢で千日参寵し、木食行のすえ、入定する。遺言により3年後発掘し、ミイラとなっていたのを海向寺に即仏堂をたてまつる。(酒田町史年表稿)
4月本間久作(宗久)委托財産を光丘から引継ぎ下蔵に移住する。去未年以来久作が財資を管理し家事を摂行していたが、是に至り金穀収支を計算して目録を調製し、銀壱千三百七拾五貫六拾壱匁壱分を光丘に引渡し、さらに譲状を以て自己の所有となるべき金四千三百拾弐両、銀六拾五匁五分、田地十八ヵ所の地引金五百七拾両弐歩、米弐百九拾八俵、外に金三百七拾両、無尽取米三百七拾三俵弐斗七升三勺を受領した。そして総ての出納に係わる指引残額にして光丘に引渡すべき金穀の未了に属する金弐千八百七拾八両、銀四拾匁、米弐千六百五拾弐俵の処置に関し、彼我の意志疎通を欠き、争う所があったが親族の調停に依り「議定書」をつくり、授受の手続きを了し下蔵に移住する。(市史史料篇五)
5月23日23日から大雨、24日最上川大洪水。水害
9月本間家の渡口米(小作米)1898俵5合となる。(市史史料攜五)
9月大庄屋伊東伝内ら三人は、酒田船の積高が急に減少し、経営が困難になっているとして船方の窮状を町奉行所に訴える口上書を提出する。
冷害のため大減収となる。この年は土用中でも暖かくならず、虫や蛇まで出なかった。畑作物や大豆も植付したままで花が咲かなかった。大根ばかりが大豊作。米価は高騰し、10両に13俵となった。9月、三町の困窮者1300人に、一人1日一合ずつの救米を出す。
11月奥羽大凶作のため、小舟方は内町組12貫13文、米屋町組20貫文を小舟方割役所から借りうける。
12月町用金より小舟方割役所へ金8両を貸与する。
奥羽大凶作「宝五の飢饉」という。餓死者が路上に横たわるという惨状を呈する。藩では酒造差止を命ずる。鶴岡の米相場一番値段10両18俵の高値を示す。(荘内歴史年表)飢饉
藩で広岡新田村預谷地等に山萱等を植付ける。(荘内経済年表)
先年類焼した船割役所が再建されず、船方御用は内町組大庄屋伊東宅で、船割は船頭の頭宅で行う。
本間家の土地台帳の裏文書に東都方面の仕切書が見える。それによると米・蝋・古手・薬種・瀬戸物・小判・銭などを扱い、上方と取引して産をなしたことが知られる。
最上紅花子駄が酒田へ運ばれる。(天町念仏講帳)