宝暦8年(1758)

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宝暦8年17582月本間光丘が西浜(光ヶ丘)に植林を始める。いまの下日枝神社の処が、北西風の風の道であることをさぐり、ここに冬、丁持達に莫大な量にのぼる砂俵を運ばせて一大横丘(現山王森)をつくり、その上に能登の黒松を植える。砂防林の経営は苦心三十余年を費やし、南は最上川河岸より、北は長坂に至る延長1000間、(1820メートル)東西250間(455メートル)に及んだ。60年後漸く風砂の害が少くなる。(荘内歴史年表)
2月大小船頭の頭12人と船肝前2人が、松山藩の年貢米川下げを問屋商人請負としたこと、さらに御手船造立になると小船数がへり、これまでのように船役を勤めることができなくなるとしてその中止を訴える。
小舟方仲間は、今後の維持・再建を図るため、この年から六ヵ年の無尽計画をたてる。
4月29日武芸者梶原久三郎が没する。88歳。寛文11年鵜渡川原に生まれ、貞享2年武術修業を志して江戸に赴く。その後多くの武芸に出精して練磨を重ねる。坂巻流和悦・厳志流太刀・沙門流縄のほか、棒・鎌・居合・手裏剣・槍・長刀にも長じて、稀代の武芸者と称された。青原寺に葬られる。
7月13日伝馬町から出火して北西風のもと肴町に及ぶ1,479戸を焼失する。下山王社も焼ける。火事
8月連日の降雨で日向川洪水となり、田畑を浸す。水害
9月22日大坂の久蔵船が米と鰯を積んで秋田を出帆、能登沖まで下りてから25日、26日の下り大風にあい帆柱を切る。29日飛島沖にたどり着き、23艘で引入れる。米一千俵を揚げて、飛島の問屋本間又右衛門にあずけ、翌2月出帆する。
10月24日医師本間俊安が没する。45歳
光丘が五丁野谷地を藩から借入れ、年々600両を上納する。またこの地に接待寺をたてようとして、願い出たが許されない。光丘は私費を以って酒田郊外五丁野谷地に一寺(種徳寺)を建立し、旅人の救済保護に当り、また経蔵には図書を備え、学田を附して一般庶民の修学に資しようと計画したが幕府の「永代寺院建立禁止令」のため果たすことができなかった。このとき光丘は寺の什物として北野天満宮へ天神絵像二幅の下賜を乞い、毎年お祭りをしたという。その後、光丘文庫が生まれたのは、これに起因するという。(荘内史年表)
城代松平甚三郎が家老見習に転じ、以後組頭より在番月交代となる。
飛砂のため下台町末と弁天小路両側の家が立退き、今町端から妙法寺裏が荒地となる。(市史史料篇五)