宝暦10年(1760)

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宝暦10年176011月亀ヶ崎城在番を半年勤務とする。
12月三十六人衆の由緒調べを町奉行に出す。
利右衛門小路から寺町に至る間の道幅を19メートルに拡げ、東西を分断する火防線としての広小路(現柳小路)が、前年4月から着工し、ようやく完成する。柳小路はこの年に築設した火防線。このとき町奉行中田七郎兵衛の発案により、新井田川から水を引き、広小路の中央に南北に縦通する溝渠を掘り、これに火防用水を貯えようとした。ところが土地が砂質のため目的を達するに至らず溝渠は漸次埋まってしまった。その後、文化10年、町奉行山中伝太夫は本間光道の寄附で溝渠を埋め、高さ1.2メートルの火防土堤を築いた。しかし、これも長くは続かず、取り壊され火防として柳を植えた。
泉流寺が妙法寺坂の下から現在地に移転する。
庄内二郡の五人組掟を布く。(荘内史年表)
遊摺部・飛鳥・砂越・榎木・新堀で最上川鮭漁場の境論がおこり、藩庁で裁決する。(山楯佐藤善右衛門家文書)