宝暦13年(1763)

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宝暦13年17634月いままで城米船出湊以前は藩米船の出湊はできなかったのを、前後なく出湊できることとする。
5月藤塚水門修築中のため、吹浦並びに五浜通りの租米を漁船で酒田に廻送する。
8月下台町長右衛門船が酒田湊出湊後、強風で難船し、温海湯治の8名と水主3名が行方不明となる。(市史史料篇四)
12月光丘が町奉行中田七郎兵衛にはかり、酒田火防用金の積立を始める。
酒井図書直恭が城代となる。
北千日堂前の町端れより西荒瀬村田村に至る西方一帯の松林を伝馬町山という。宝暦年間に伝馬町の住民が附近に新田を開発しようとするに当り、風砂の被害が甚しかったので、協力して年々松を植え付けたもの。(明治初年国有保安林となる)
荒瀬郷とともに平田郷も郷方宿船による年貢米の川下げと、古来通りの「上乗付」を酒田船方に要求してくる。
北前船と呼ばれるようになったのはこの頃からである。北前船は4~5月に播州などから塩を運んできて、6~8月には逆に酒田から米を積込み、9~10月には松前からニシン・〆粕・昆布・魚介などの海産物を運んだ。
兼清。細工師、戦国末期の刀工兼高の子孫と伝えられる。鍛冶町に住み宝暦年間に鶴岡の軍学者小寺信正の依頼をうけて鎧を作った。
船場町八右衛門宿船由利郡三太郎船の鉄等の隠荷に関係した船場町仕立屋喜兵衛が川南追放、他の三名も所払い等の処分を受ける。(閑散文庫)