明和元年(1764)

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明和元年17644月中川通御年貢米川下の時、差合をした下袋小路三次郎等4名が他所追放となり、船持の中袋小路長吉は家業取上げのうえ戸〆となる。(上に同じ)
5月光丘が多年献金の篤志の善行を賞せられ「御手廻格御小姓頭支配」となり、俸十口、合わせて三十口を賜わる。この頃、藩財政は光丘をはじめとする町人資本に強く依存することとなる。またこの年、光丘が金一千両を藩主に献納し、その利子を以って菩提所大督寺及び城池修繕の資に加える。(荘内歴史年表)
7月本間光丘寄進による徳尼公の木像(現在のもの)が海路京都から酒田に着き、泉流寺で入院式をあげる。(酒田町史年表稿)
12月26日釈道粋が没する。52歳。鷲峰。越後新潟本浄寺に生まれ、はじめ京都に上って儒者宇野明霞の門で勉学に励む。のち酒田大信寺の住職周恵の養嗣子となる。西本願寺の学頭となり学林の制度改革や整備に力を尽し『真宗法要』の編集に当った。大信寺に葬られる。著書『安樂集』『正錯集』『般舟讃料』『真宗法要』等。過口銭の取立をめぐって問題がおこり、山形・上ノ山・柏倉・新庄・左沢・天童・高楯の惣代10人が過口銭増額分の取立中止を庄内藩に願い出る。
庄内藩で通荷物その他の庭銀をやめる。また増口銭請負が4千両であったのを、さらに500両増額する。
酒田川船が鶴岡内川の川岸へみだりに船をつなぐことで鶴岡側から抗議があり、酒田大庄屋から鶴岡登りの全船頭に達され、これに全船頭が署名捺印の請書を出す。
坂野辺新田の開発がなる。
この頃本間家では小作差配のため代家制度をつくる。(市史史料篇五)
この頃、上林白水のもとには釈公巌・結城庭賢らの漢詩人が集まり、片山北海のひきいる大坂の混沌社と詩文の応酬をし、漢詩文の花をひらかせる。
元芸妓、俳人、三丁目玉鸞が没する(生年不詳)。書き物、縫い物をよくし、俳諧に長じ玉鸞と号した。豪商三丁目斗南に身請けされて下内町に住む。その後斗南の死にあい、尼となって智月と号し、終生、夫の菩提をとむらう。墓は青原寺に夫の斗南と並んで立っている。 軒にはや蜘蛛のしらせや星のそら はだぬがぬ女の罪のあつさかな
荒瀬郷43力村の百姓が夫食米の拝借願いで、502名が鶴岡城下に強訴する。そのため大庄屋や百姓多数が永牢・追放・過料等の処分を受ける。(閑散文庫・県史資料篇一七)
荒瀬郷が古川・島田・新田目の三組に分割される。
浜中村百姓善吉と同村佐七妻が相対死し、ひそかに善宝寺で火葬したことで、肝煎等3名の村役人は役儀取上げのうえ戸〆、そのほか親類・五人組も戸〆等の処分を受ける。(閑散文庫)