明和4年(1767)

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明和4年1767正月酒井忠温が卒する。36歳。長男忠徳(九代)が相続する。時に年13歳。(荘内歴史年表)
正月本間光丘が士分と成り御家中勝手向取計に任じられ、窮乏諸士の家計整理のため資金4千両を供給する。これは光丘が藩政に参与の当初で、その後、貸金役所を鶴岡に置き、永く家中諸士の困窮を救済する。(上に同じ)
3月亀ヶ崎城代等が郷村を通行する際における大庄屋出迎規定を定める。
3月強風のため、摂州大坂船12人乗等の海船8隻が、遊佐郷小湊村・能登興屋村等の浜で破船する。(市史史料篇四)
4月八軒町川端から出火、焼失24軒、取壊等12軒を出す。(野附文書)火事
5月17日山王堂町から出火して280戸を焼く。火事
5月飛島に城米船が漂着する。
5月洪水が門田堤防を破り、酒田城米積込船を押流す。御米置場(瑞賢倉)も破壊される。水害
11月21日亀ヶ崎の武芸者、初代小久保明光が自宅に道場を開く。この時の祭文が、現在子孫の家に残されている。
12月28日光丘が米価騰貴の為、安売座を設け町民を救済するにあたり米4169俵を提供する。(市史史料篇五)
光丘が私費で、酒田湊口の大浜州崎に常夜灯(灯台)をたてる。その後、下山王宮境内の西南隅の高所に移す。(酒田灯台の始まり)
大山・酒田間の街道運賃のうち酒田・宮野浦間の駄賃60文、酒田・浜中村間の駄賃180文、歩行一人90文、駕篭310文とある。
鈴木筑太夫が建議し、藩士は禄一石、農民は米一石につき年々籾5勺を出させ、「備荒貯蓄」とする。五勺籾制度の創始である。(岩本氏年表)