明和7年(1770)

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明和7年17703月25日国目付菅原藤十郎、戸田主膳が来庄し、閠6月27日江戸へ還る。(荘内歴史年表)
5月頼春水(頼山陽の父)が父亨翁に随い酒田に来遊する。
春水(25歳)は父亨翁(64歳)と共に5月2日、大坂を発し、奥羽遊覧の旅に出で、途中、大石田より舟で最上川を下り、同月24日清川に宿し。翌25日酒田の曽根原魯卿の家に行李を卸して、28日象潟に至り、翌6月1日再び酒田に帰る。国器伊東見境・快翁中川良純・馬卿上林五郎右衛門・子廉結城庭賢・曽根原魯卿等と詩会を開く(詩稿本間家所蔵)。5日酒田を出発して、最上川を渡り、大山・温海を経て新潟に赴き、木曽街道より大坂に帰る。このときの紀行文『負剣録』がある。酒田の女性を色白とほめている。片山北海塾時代の学友曽根原魯卿を訪ねたもの。最上町端の丸の御橋で別れの野宴を張る。
6月3日光丘が家道七ヵ条を制定する。(市史史料篇五)
6月18日柔術家明石治右衛門が没する。庄内藩士で若年から柔術を好み、地元の梶原久三郎に坂巻流を学び、のち江戸に出て渋川伴五郎に入門、奥義をきわめて免許を取得する。明石の柔術は、石川猪太夫の剣術、相良十太夫の槍術とともに庄内三名物と称される。青原寺に葬られる。
10月10日本間家に巡見使御用の勤功により添知弐百石を賜わり、高五百石となる。(市史史料篇五)
この年、戸数3,577戸、人口14,845人。
巡見使来酒につき酒田丁離の芝居を停止する。(酒田町史年表稿)
赤川・新井田川を行き来する「むたま船」の数879艘。
亀岡文珠尊で有名な松高山大聖寺に壺仙が鑑塔(俳諧美濃派の象徴)をたて、これを記念して『梅の道』が刊行される。