安永元年(1772)

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安永元年17724月15日片町から出火して南東風のもと2182戸を焼く。(酒田町史年表稿)火事
4月柴橋代官が御米置場は風害があるので、荘内藩倉庫の借入を申しこんだが許されない。(酒田港誌)
5月18日土佐の詩人・南画家、中山高陽が奥羽を漫遊し、山寺から最上川を下り来酒する。この間、象潟を見、羽黒登山をする。伝馬町の旅龍三浦屋重介に泊る。
5月遊行上人が来酒する。
7月20日本間正五郎が巡見使御宿建築、江戸両藩邸御用米三千俵を献納の賞として正五郎に俸五口を加えられ三十五人扶持となる。(市史史料篇五)
藩主酒井忠徳、18歳、この年、暇を賜り始めて江戸より庄内にくる。途中福島に至り、すでに旅路の費が盡きる。藩の金庫缺乏を聞き、忠徳は深慮するところあり庄内につくと、親しく民情を視察し、大英断を以て前代の制を改め、藩邸並びに封内全般に布告して倹約を励行させる。(荘内歴史年表)
安永から寛政にかけて北国船が姿を消し、弁財型の北前船が優越する。酒田では北前船といわず、弁財船とよんだ。買積み商船である。
この頃、京都の仏師都倉杢之丞が来住し、その三代目が漆屋を開業する。
この頃、白崎善次郎が最上川の埋木細工を作る。三代善作は文化頃から堆朱や堆黒を始める。
伊藤四郎右衛門が金5千両を藩主に献じ、二十人扶持をうける。翌年10月、さらに5千両を献上する。