安永3年(1774)

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安永3年1774この頃藩の財政が極度に窮迫し、用金2万両の調達を町方に達する。
光丘が3千両を調進する。このため藩庁で光丘に依頼するところいよいよ厚く庄内江戸御勝手御用掛を命ぜられる。
本間久作(宗久)が寸志金上納で十人扶持となる。(宇治家文書)
相場師本間宗久(58歳)は江戸に上り、根岸にすみ、米相場や大名貸をして巨万の産をつくり根岸の本間と称される。宗久は海晏寺和尚から風幡の公案を与えられ・て悟るところがあり、これを応用して「三位の法」または「三昧伝」をあみだし、相場の天才として連戦連勝する。三位の法は現在でも相場の虎の巻として珍重されている。また彼は酒田時代・相場研究法として罫線表を発明した。これは「酒田罫線」または「酒田五法」とよばれる。五法は三山こ二川こ二空・三兵こ二法からなっている。この頃、酒田では相場師を“目早”といい、全国から米商が入りこんで、活気を呈し、米都の面目を遺憾なく発揮していた。
桃井桃庵が『傷寒論古訓前篇』三巻二冊を著す。