安永7年(1778)

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安永7年17782月船場町の本間幸四郎等六軒による湊口銭請負満期に付、村山与四兵衛・津国屋太助に年額千五百両余増上納にして請負わせる。(酒田港誌)
3月酒田町雑用銭引足元立銭の組織ができる。本間光丘が1,250両を出資する。(荘内経済年表)
7月学者、平沢旭山、元鎧が来酒する。(漫遊文草)
11月上の山の修験者、覚寿院賢秀が没する。64歳。学徳が高く門人数百人におよぶ。本間光丘も彼に学んだ。正徳寺境内に光丘が墓碑をたてる。
12月大洪水、中之口川端町では35軒が床上浸水となる。(野附文書)
この年から山王祭礼当屋で、祭礼当日町民に赤飯を贈るしきたりをやめ、当屋4人に7両ずつを、山王用金として出させる。(酒田町史年表稿)
「火消方諸事定書覚」によると、消防隊は東組と西組に分かれており、それぞれの町火消し人足の各町別割当分担が記されている。総勢1,363人である。(伊東家文書)
大火になったときの防禦線として俗称「馬の骨」を柳小路・上の山・肴町通り堀端等に決める。(伊東家文書)