天明4年(1784)

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天明4年1784閏正月2日困窮者や飢渇者に、救米300俵が下付される。
閏正月10日困窮者の調査と報告についての達しがある。米座願いを申し出た者308人、粥座願いの者265人である。(野附家御用控)
1月御召替船建造についての通達がある。
1月凶作につき米穀・味噌沖止めとなる。
3月22日大森子陽に一時嫁した竹内某が没する。少年時代の良寛の漢学の師大森子陽は安永6年鶴岡に来て、寺子屋を開く。このとき酒田竹内伊左衛門の娘が嫁し、男子宗晋を生んだが、離縁となり、酒田に帰り、竹内伊兵衛と再婚し、別家となっていた。竹内家には、離縁のとき貰ってきたと思われる子陽宛の諸儒者からの手紙を保存していた。
3月京都の紀行家、医師、橘南谿が来酒する。 出羽国酒田を朝とく起出で、吹浦といふ里を心さし行く、その間六里にして路傍に人家なく、また、田畑も見えず、左は大海、右は鳥海山にて、過ぐる所は渺々たる沙場なれば道路もさだかならず、この辺の人だに迷ふ故にや、その間三五十間程づつに柱を建て道の目印とせり。(東遊記)
3月洪水。水害
4月30日儒学者結城鳳洋が没する。69歳。雄・快天・文助・江陵。松山藩の人。林家に生まれてのち結城家を継ぐ。酒田和泉小路に塾を開く。そのかたわら新田道粋・伊東見境・小寺信正らの懦学者と交わる。鳥海山麓、剣積寺の西丘に葬られる。
5月光丘の発意で下の山王社を、桜小路坂の上に再建する。(酒田町史年表稿)
9月紀行家・民俗学者菅江真澄が来酒する。酒田のことは「鰐田濃刈寝(あきたのかりね)」にくわしい。 袖の浦の波吹きかへす秋風に雲の上まで凉しかるらん、と聞えしは宮の浦のことなりけれど、今はもはら、この酒田をさして袖の浦とのみいひならはせり、この饑ちかく行けば高波ひとつうち上りたるに、みの笠いたくぬれたるをわびて(遊覧記)
前年に引続き凶作のため米価昂騰し10両に付12苞になる。(荘内歴史年表)
光丘が大施主となり龍厳寺を造立する。
酒造御停止中、筑後町酒屋与三郎が私用の酒をつくり、過料五貫と戸〆になる。(野附文書)
先年の火災で類焼した天正寺等酒田の十一力寺が本間家より120両を拝借する。
凶作のため倹約令を出す。