天明5年(1785)

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天明5年17854月17日下袋小路吉右衛門より出火、船場町まで206戸を焼く。潰家17戸。(荘内歴史年表)火事
10月6日泉流寺が炎上する。火事
11月28日温海(早田)の盲目の孝子慶玉が没する。74歳。慶玉が孝養の限りを盡した母をなくすると毎年、柄杓百本ずつを庄内各地の清泉に配置して母の冥福を祈る。孝子として逸話が広く語られている。(荘内歴史年表)
この年発行の林子平著『三国通覧図説』の中のアイヌ風俗に「中下品ノ者ドモノ帯ル脇差ヲタシロ或ハマキリト云。皆本邦ヨリ渡ス也、出刃包丁類ニシテ悉酒田打也」とあり、マキリが酒田鍛冶町の鍛冶職人の手になることが知られる。おそらく出雲鉄を輸入し、鍛冶町でつくり、本間船で北海道へ輸出したものであろう。
鍛冶株・鍛冶屋敷売買等についての決まりが出る。(野附文書)
荒町の文助が本町の谷口九兵衛宅を借りて塗物と指物店を開きたいと願い出る。
天候不順のため大凶作。(荘内歴史年表)
美濃派の宗匠神谷玄武坊が来酒し、米屋町の武長百合坊家や浄福寺の茶室「静思館」に4ヵ月程逗留し、酒田を美濃派獅子門白山下系統の東北総本山にしようとし、この地に一大蔵経(仏頂禅師の遺誡等をさすか)を置きたいと手紙に書いている。また百合坊を獅子門酒田五世にしたり、泉流寺に支考の鑑塔(墨直塔)を建てる。その後、そのかたわらに百合坊等酒田宗匠の墓がたてられ「六俳人の碑」とよばれる。
梅花仏  天明五乙巳白山下酒田連中建之
                (鑑塔・各務支考)
百合仏  文化三丙七月廿一日惣連中建之
       池文玼・二豊李・上干翼
       我か墓も願ハハ梅の下やとり
玄武仏  寛政三辛亥八月十六日  白山下連中造立
       不玉叟・芦錐居士・淇水居士・釋文草
漸伸仏  文政八乙酉五月 日
黄梅仏  天保六年乙未三月十七日
梅亭仏  嘉永二年己酉二月廿二日
玄武坊は来酒の際、芭蕉の禅の師である仏頂禅師の遺誡(信願文)と芭蕉の木像を持ってきて、3月29日酒田講連代表百合坊に預けた。その後、遺誡は、百合坊から伊藤四郎右衛門花笠へゆずられ、さらに伊藤家から(あるいは藤井家を経てか)本間家へ渡ったものと思われ、現在は本間美術館にある。木像は武長家か伊藤家から浜田の藤井家にわたり、今も同家に残されている。この二物は江戸深川の仏頂がかっておった臨川庵にあったもの。芭蕉は仏頂からお袈裟と如意を与えられており、禅的に相当の域に達していたものと考えられ、蕉風の不易流行とか虚実・わび・さびや。“かろみ”の思想には禅の影響が大きいと推定される。伝来は不明であるが八幡町堀大常が仏頂禅師の学道用心記を所蔵している。この学道用心記は貞享4年に書かれたものなので、芭蕉の蕉風開眼の句とされる。“古池や”の句ができた翌年、「鹿島紀行」の年に当たる。おそらく仏頂はこの学道用心記の精神で、芭蕉を指導したことはまちがいなく蕉風を探るうえでの重要資料といえる。