天明6年(1786)

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天明6年17864月12日淡路小路(片町の一部)から出火して126戸を焼く。火事
5月光丘が下の山王社の南方に現日和山公園に通ずる新道をつくる。
7月光丘が本間宗久の出入禁止を許し、ついで宗久が江戸より来る。(市史史料篇五)
夏、東国洪水、諸国凶作、米価が高値となる。
越後の船頭与兵衛船が商いのため松前に下り、荷積して9月四日松前を出帆し、6日飛島につき東風に遇い、酒田出しの最上紅花二箇を取り揚げる。(飛島誌)
10月元酒田町奉行、堀季雄が没する。52歳。『御系譜参考』『承露盤』その他著書が多い。学者奉行として善政をしいた。
この頃、海船出帆の際、沖瀬取につき川船と猟船との問で、争論が多いため、上荷揚より一人ずつ浜にでて、沖瀬取をとり鎮まらせる。(酒田町史年表稿)
この年家老、石原平右衛門が失火し、罰刑を達せられる。7軒以上焼失入寺10日、30軒以上20日、100軒以上40日、200軒以上70日、300軒以上100日。
米価10両に11~12俵となる。藩主忠徳は鶴岡と酒田の両町及び八郷に米400俵宛を下附する。(荘内史年表)
前年にまさる全国の大飢饉により幾万の窮民が庄内に救いを求めて来る。途上に餓死する者が多い。いわゆる天明の大飢饉。(荘内歴史年表)
龍沢山善宝寺という寺名がはじまる。大山にあり、もと正法寺の末寺、のち本山の直轄となる。有栖川宮家の祈願所。由来船舶の水難を除き霊験あり、北海道に信者が最も多く、祈祷料による所得の盛なことは天下有数と稱せられる。海上の神火とされる天燈・龍燈の伝説があり、北前船の船頭達は「酒田の善宝寺」と称して、航海安全を祈り、参詣した。日和山公園に文化10年にたてられた常夜燈にも「龍王宮宝殿」と刻まれている。