天明8年(1788)

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天明8年17882月忠徳は東海道川々修理の幕命に接し、費額2万2千数百両を調達のため、藩士に上げ米を命じ、領民に五千両の献金を令する。光匠は命を奉じて大坂に赴き大和屋土田三郎左衛門より7500両、神戸俵屋田中孫三郎より同額の通計1万5000両を調達し、さらに本間庄五郎(光丘)をして350両を献上させてその資にあてる。(荘内史年表)
3月酒田の俳人、柳下舎寸昌がその師四時庵信夫の遺志をつぎ、現日和山公園に凉塚「温海山や吹浦かけて夕凉」の芭蕉句碑をたてる。これは酒田最初の句碑である。石材は冬に生石から運んできた。その際、唄をうたいながら賑やかにくねるというので、あらかじめ亀ヶ崎足軽目付に届け出ている。書は武然。柳下舎寸昌は、出町(現ノバハイツ)の豪商で廻船問屋を営んでいた柿崎孫兵衛である。
6月28日紀行家古川古松軒が奥羽巡見使藤沢要人・川口久助・三枝十兵衛に従い酒田に止宿する。古松軒、名は辰、字は子曜、通称平治兵衛、備中の人。最も地理観測に精通し、周遊を好み、戦跡を探って世に資する所が多い。頼山陽は深く古松軒を信じ、その著に依り啓発される所があり、そのため彼の伝を作るという。文化4年11月10日没する。82歳。その著『東遊雑記』に、酒田のことを次のように記している。 「此所は羽州第一の津湊、市中三千余軒、商家にて人物、言語、大概にて諸品乏しからず、九州、中国及び大坂より廻船交易の為めに往来し、此津に泊して、国中の産物を積むなり、大船は宮の浦の川口に寄せ、酒田までようよう三百石積の船ならでは入らず、酒田より川口迄三十五丁有り」(東遊雑記)
7月16日素封家伊東弥十郎が没する。57歳。祐睦・百和・紅雪舎主人・興尾。伊東伝内(祐重)の次男として下内町に生まれ、のちに父の跡を継いで大庄屋となる。天明3年の大飢饉の折、難民を浜畑町の一角にすまいさせ、井戸掘り、庭造りの生業を与えた。俳諧をよくし百合坊・岩二・斗南らの俳人と交友し、また和書に詳しく数百人の門人がこれに学んだ。妙法寺に葬られる。
9月6日本町一丁目から出火して186戸を焼く。(酒田港誌)火事
9月13日光丘が現在の下の山王社(現在の建物)を再建し、この日遷座式を行う。日和山公園に達する参道の模様は妙法寺を模したものという。山王大鳥居・随身門・石橋・常夜灯・絵馬殿・神楽殿もたてられ、目を見張るみごとさだった、と想像され、境内には桜を植えて景観をそえた。光丘の旧主姫路の奈良屋権兵衛は「菊童子」の絵馬を神社に奉納する。これに本間家と同じ「天下同人」の家紋がついている。初代原光が奈良屋に遊んだ折、二人で卦を立て、これを得て両家の家じるしにしたという。
9月従来は奥羽荒浜出しをしていた城米川下しの件について幕府領柏倉代官広瀬伊八八郎が来酒する。
10月長崎俵物御用船、三国丸・船頭作兵衛・乗員21人が箱館を出帆し、10月2日渡沖で梶を痛め、帆柱を切捨て、風次第に流され、三日はし船で飛島に着く。(飛島誌)
11月丁離は諸人から用命の時は、冠り物をとり、はき物をぬいで聞くべきことが達せられる。(酒田町史年表稿)
庄内大凶作、農民の困窮はその極に達する。(荘内歴史年表)
藩主忠徳は五人組掟に大修正を加えて、領内に頒布し、遒行させる。これは59條より成っていた。公義諸法度を守るべき事・宗門の事・制札を尊重すべき事・年貢諸役を大切に守るべき事・徒党を禁ずる事・孝行の事・農を励まし村費を節する等、細大もらさず書かれており、また相互扶助の精神を高唱している。(荘内歴史年表)
この頃酒田湊の水戸の深さは、最高で一丈一尺(3.33メートル)、最低五尺五寸(1.67メートル)である。酒田は河口湊のため、最上川によって、土砂が流され、浅くなる。従って湊内には三百石以下の海船しか入れず、千石位のものは宮野浦沖、五、六百石の船は大浜沖に瀬掛りした。そのため米を積むときは瀬取船で運んだ。こうして瀬取船で米や荷物の積みおろしに働く丁持を沖丁持または沖仲仕といった。酒田の沖仲仕は海船に米俵を積む名人であった。
この頃酒田に和算家がおり、鳥海山の高さを測量する。なお、幕末に大山の和算家旭山がおり、羽黒山に算額を奉納している。その門人の中に酒田青塚栄四郎尚政の名がある。
鍛冶町太吉が、船大工と申し合わせ、鍛冶細工を独占したことから町内の鍛冶家業の者が太吉の家を打ちこわすなどの騒動となり、町内で多数の者が処罰される。(野附文書)