寛政元年(1789)

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寛政元年17891月9日猟師町から出火、御米置場や漆山番所を焼失する。火事
3月光丘が叔父本間宗久の依頼に応じ上納金残額を負担し、船場町の下蔵全部を取得する。(市史史料篇五)
4月11日敦賀船の船頭久三郎が木綿と油を積んで秋田に下る途中難船し、飛島より人足30人を出して救済する。木綿55反、油3樽を拾い揚げ、その20分の1を貰い村方で配分する。(飛島誌)
6月21日僧固胤が没する。姓斗山、碩学で名あり、のち持地院の二十五世住職となる。能登総持寺の輪番をつとめる。その帰り、のちの金龍をつれてくる。
8月御米置場を新築し、新井田蔵を改築する。
11月18日光丘が高岡屋久米之助に家業資銭及び婚礼用金を助力し、須藤市郎左衛門に質方仕入金を委托し、津軽出店に在勤させる。(市史史料篇五)
12月3日光丘が、丁持達の冬期失業救済のため「冬貸助力銭」をつくる。これを「本間銭」と称する。(荘内経済年表)
光丘が松山藩の財政整理に当る。
この年、年貢米廻漕規定を改正する。
俳人津下淇水と天神像。 淇水、通稱長右衛門、家号を尾張屋と称する。のちに氏を久松と改める。上中町の角に家塾を開いて子弟を教育する。初め鶴岡の俳人、風草を慕い、のち芦錐の跡、文台を預って宗匠を勤める。『袖の浦集』を出す。また盧元坊に伴い、最上杜苓亭に於ける俳諧『柿紅葉』一巻がある。尾張屋伝来の天神像は霊験あらたかなことを以て世に知られる。現に上の山薬師神社に奉安する。
この年刊行された『東國旅行談』(著者松井寿鶴斎)に、酒田の山王宮の神事・飯盛山・暑中の雪・花紋燭・飛島の鮹・國風俗の五節句・青原寺のざら梅・根曲竹などの記事があり、民俗学的にみて貴重である。また花紋燭(絵ローソク)のことについて次の如く記されている。「本町なにがしの家にて製する蝋燭なり、当国の晒し蝋は日本第一の名産にして、至って色しろく、雪のごとし……彼潔白なる蝋燭に五色の絵の具をもって花鳥・山水・草木・花実・和漢の人物、美女等をえがき」とその美しさをたたえている。 「酒田といふ所は町なり、海辺に山をひかえたり、その麓を町に建てならべ、千門万戸いらかを斉しくして人睦まじ、此所を船町と名づけて、攝州大坂より四国・中国・西国・九州二島の商人船はみなここに着岸し、東奥北陸の産物を交易して利潤の売買金銭の取引に市をなし、町の繁花なかなか筆に尽しがたし」(東北旅行談・光丘文庫蔵)
寛政年間、俳人、美濃派の内、再和派第六世の佐々木松後が酒田を訪れる。
寛政年間、西廻り航路は713里で米百石の運賃金が21両。東廻り航路は417里で、23両2分であり、西廻りの方が距離が2倍近くあるにもかかわらず運賃は若干安い。
藩では亀ヶ崎城や酒田町及び最上川沿岸数十力村の危難を救うため、最上川の国役普請を幕府に請願する。
奥井長兵衛が奥井新田を開発し、田9町9反余、畑2反余を起す。(大泉史苑)
酒田三町の塩屋30人が塩の値段を申し合わせて決めたことで、奉行所より全員が慎しみとなる。(野附文書)
内町組・米屋町組の宿船が小船方のみを雇うので、稲荷小路等の酒田町組の大船方より大小の船も雇うよう願い出る。