寛政2年(1790)

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寛政2年17905月当日城米船の出帆前後にかかわらず、商船の出湊を許す。
8月8日高山彦九郎が東北遊歴の途次酒田にくる。このときの紀行文「北行日記」の酒田部分、下日枝神社界隈のことが、山王森に文学碑としてきざまれている。
日和山とて小高き所あり神明の宮あり
目下に最上川を見あなたに砂山清し(中略)
九日雨少しく降りて晴る山王の社へ寄る
日和山の続きなり鳥居を入り小高し
楼門を入り小き石橋を渡る社大なり
午未の間に向ふ神楽殿絵馬殿有り
下りて町へ出で又日和山を見まほしく
帰りて望む南に青く小き山丸く見ゆ
祈山と号す弁慶が祈り出だしたりと伝ふ
「北行日記」より
江戸中期の尊王論者。上野国細谷村に生まれる。蒲生君平・林子平とともに「寛政の三奇人」といわれる。6月、江戸を発し各地を廻って、酒田に来遊し、蕨岡から鳥海登山を試みている。
8月三十六人衆から近年役儀が略され、軽くなったので、古格の通り重くされたいと願い出る。
10月10日暁、松山城大手門が雷火で焼失する。(荘内歴史年表)
10月光丘が施主となって、泉流寺の徳尼公廟を再建する。徳尼公の忌日、4月15日には、いまでも三十六人衆の子孫が集まり、追善供養をしている。(荘内経済年表)
12月本間次郎四郎が松山城大手門寸志再建を願い出る。実は四郎三郎光丘の出願である。(松嶺町史年表)
日向川の水害を避けるため、川北の門田村が現在地に移転する。(日向川史)
十里塚村で飯森山の下を開田する。(山形県地誌)
他役所に願書を出す時は、町奉行に伺い届けを出すことを定める。
町内自身番を二十一ヵ所とし、一ヵ所に三人ずつと定める。
夏から秋にかけて全国的に赤痢に似た流行病がはやり、伊藤維恭はその治療に当り、効を奏する。病気