寛政3年(1791)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
寛政3年17913月城米輸送について、長瀞役所管下の諸郷に細かな規定を通達する。
3月洪水。水害
3月大庄屋たちが町奉行に帯刀を願い出たが許されない。
3月千日堂前の医師、井柴連治が盗賊に殺害される。このとき亀ヶ崎御定番小沢義右衛門も殺害された。連治は海晏寺に葬られる。
5月22日光丘が海晏寺に聖徳太子堂を建立寄進し、遷座供養を行う。(市史史料篇五)
5月光丘が伊勢屋治郎右衛門を通して海船及び津軽質座純益金を担保とし、津軽藩に用金千両を提供する。(上に同じ)
7月19日最上川堤防の国役普請を請願し幕府の許可を得る。(荘内歴史年表)
8月飛島村堤防六百間が(1092メートル)竣工する。普請工費6350両、俗に公義土手という。
10月鵜渡川原堤防と御米置場の普請ができる。
城米川下し船は延享年間に165隻ときめていたが、その後破船が多いため当年は120隻にきめる。
光丘が酒田家中、八、九人の前で、親から譲られた封金(藩への御用金)6万両、その後、光丘が御用のため、ここぞというとき差上げる封金として7万両を貯え、都合13万両あると語ったことが災いして、天保11年の転封命令達しの際、本間家は一時、苦境に陥る。
医師伊藤維恭が去年の治療経験をもとに『治痢功徴篇』を江戸で刊行する。
医師佐藤蒿庵が生まれる。