寛政4年(1792)

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寛政4年17923月22日植林功労者堀善蔵(豊年)が没する。歳不詳。
観音寺城主来次氏の家臣堀大膳の孫。祖父大膳は元和9年飽海郡西浜に移住して藤塚村を開き、万治3年12月に没する。代々大組頭を継ぎ、善蔵は西山の南北1300間の植林を行い、文化2年子善次の代になって完成した。
3月3月大風。
4月22日鳥海山鳴動、五ッ時大鳴がある。(矢島旧記)
7月15日~16日まで日向川洪水となる。水害
7月光丘が松山城の大手門(多門楼現存)を再建し献納する。(市史史料篇五)
10月光丘が最上川の新堀渡船場の氷上敷板及びその修繕料を寄託する。今まで旅人は結氷の上を渡っていたので、時々氷が破れて死ぬという事故があった。敷板のおかげで、その恐れがなくなり、大いに喜んだという。(荘内経済年表)
10月ロシアの船が突如、北海に現れる。幕府は外国船漂着防御の事について令示する。
12月漢学者、上林白水が没する。64歳。通称五郎右衛門、京都にのぼり岡白駒に学び、のち酒田に塾をひらき子弟を教育する。これは酒田における本格的な漢学塾の始まりといわれる。また、彼は盛に詩会を開き酒田に漢詩文の花を開かせた。安祥寺に寛政9年2月29日建立、上林白水先生之墓と彫られた墓碑がある。京都の儒者皆川淇園の撰文並びに書。
12月外国船見張番所を吹浦・今泉・鼠ヶ閧に設け、海岸防備の人数を定める。
八軒町の肝煎宮田角右衛門が、防風林造成を藩に願い出て許され、民家三十余戸を移住して植林をはじめ、30年後の文政5年に完了する。
飛島への入湊船数465艘・乗組人員2927人・澗役銭208貫960文。(飛島誌)
飛島の戸数157。(内訳勝浦62・浦(中村)51・法木44)
内町の佐竹弥右衛門が大庄屋格となる。
荒瀬町儀助と船場町太郎左衛門が薬湯を願い出る。(野附文書)