元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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寛政6年 | 1794 | 4月12日 | 上寺町八百屋三太郎より出火、類焼16軒、潰し家5軒を出す。(市史史料篇一) | 火事 |
| | 5月 | 罪人のたたき、追放の際、丁離頭がが羽織袴を着けていたのを股引に改める。(酒田町史年表稿) | |
| | 7月 | 米沢藩中老莅戸六郎兵衛善政が金子借用につき来酒し、光丘に会う。莅戸は米沢藩財政立て直しのため、鷹山公の命を受けて来酒する。これに対し光丘は快く承知したため、米沢藩では本間家を徳とし、その後、長く同家のために尽力している。その折書かれた「酒田往復記録」(本間美術館蔵)に「日和阜」の図が画かれており、その中に方角石もみえる。従ってこの頃すでに日和阜の名称があり、また現存のものかはともかく方角石が置かれていたことが知られる。 7月24日酒田に至り、鐙屋某家に舎す。 26日本間信四郎誘ひて山王社中不動院に遊ぶ、院に升り阜を後にす、清涼、連日の熱を洗ふ。 28日日和阜に納涼す、夕景、言ふべからず、雨、扇を笠にして下る。 8月1日尾関の家に飲む。 2日宮の浦に遊ぽんと欲して果さず。 3日痔已む、宮の浦に舟遊観漁す、月山・鳥海山と峙立す。 4日酒田を発す。(酒田往復記稿) | |
| | 11月 | 高野浜で水豹(あざらし)を捕える。(酒田町史年表稿) | |
| | | 藤島村の種耕院の住持が領内の課役、村々の役人の奸曲の行ないを詳しく記した建白書を出す。(荘内史年表) | |
| | | 藩主忠徳が白井矢太夫を郡代に任命し、農政改革に当らせる。(岩本史年表) | |
| | | 農民の困窮がひどくなり、田畑を質にして町の富裕者から金を借りるものがふえたため、田地質入に関する規定が達せられる。 | |
| | | 中町の風呂屋伝助が薬湯を始めたいと願い出たが、風呂屋仲間から除外するとの強硬論がでて、伝助も一時、矛をおさめる。 | |