寛政7年(1795)

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寛政7年17952月丁持から火防人足二組(一組15人)を交替で出させ町奉行付とし、いろは番号付の半纏を着せる。奉行付4人の年寄は三ッ星の提灯を用いる。
4月城代竹内五兵衛が中老に転じ、酒井内匠直豊がその後を継ぐ。
7月魚保利兵衛・上野三郎右衛門が、酒田・加茂・鼠ヶ関の口銭徴収請負の認可を受ける。
8月11日公料代官が酒田湊を検分する。(荘内史年表)
10月説法・法談の際、歌舞伎役者や歌浄瑠璃などのまね事をしないようとの触れが出される。
高田屋嘉兵衛(27歳)が和泉屋伊兵衛の沖船頭として来航する。
本間光丘が旅商人から竜吐水二丁を買入れ、町奉行付4人に預けて火防に備える。
中老竹内八郎右衛門らが大老水野重幸らの糾弾に乗出す。水野らは政策上、本間光丘を頂点とする町人に深く信をおき、その財力に依存してきた。
藩政改革が行われ、酒井吉之亟と竹内八郎右衛門を家老職に登用し、服部八兵衛・白井矢太夫を郡代として郷方改革係を命じる。水野重幸・本間光丘は退けられる。(荘内歴史年表)
不作で、来年の興行が酒田丁離の芝居以外禁止となる。(県史資料篇一七)
川北三郷の内、地主を酒田にもつ小作人に対し、作徳米の負引要求のため、鶴田村の後ろに集合との廻状が出る。(八幡町史)