元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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寛政8年 | 1796 | 2月 | 光丘が、この月より6ヵ月にわたり川南13力村、川北17力村の代家支配人、小作人及び村内に手当銭として合計1,314貫487文を給与する。(市史史料篇五) | |
| | 2月 | 博打用具とかるたの売買を禁ずる。 | |
| | 3月25日 | 暴風雨で宮野浦沖に瀬掛りしていた御城米船18艘のうち14艘が損害をこうむり、瀬波、鼠ヶ関等からも大工、木挽をよんで修理に当たる。瀬掛りしたままの修理なので大工達は目に油をぬって、海中にもぐり作業をする。(亀ヶ崎足軽目付御用帳) | |
| | 3月 | 鵜渡川原足軽の中に博奕やその宿をする者があり、厳重に注意される。 | |
| | 4月 | 篤学者上林誠(君実)が没する。33歳。明和元年上林白水の第四子として生まれる。天明の初め公巖らと京都に上り、皆川淇園のもとで学んで帰る。易経に長じていた。安祥寺に葬られる。 | |
| | 5月 | 鉄門海上人が片町甚助の酒乱を直すため来酒し、所々で施与する。上人の後ろを大勢の町民がついて歩いたといわれ、この頃から霊能者としての名声を高める。 | |
| | 7月20日 | 有船数調べによればこの日が一番多く、157艘とある。(亀ヶ崎足軽目付御用帳) | |
| | 7月 | 光丘が庄内藩の農政改革につき上書する。(市史史料篇五) | |
| | 9月 | 公義御役人が御米置場御見分の上出立、亀ケ崎足軽目付が鵜渡川原最上町はずれの丸之御橋迄見送る。(市史史料篇八) | |
| | 9月 | 蝦夷地アブタにイギリス船が漂着する。同じく蝦夷地クナシリにも異国船が漂着する。(上に同じ) | |
| | 10月 | 町医桜井三折が没する。67歳。享保15年鶴岡に生まれる。江戸に出て望月三英に師事し、医術を学び特に本草学に長じて高弟といわれた。酒田に移住して桜井道秀に婿入りして医業を営む。妙法寺に葬られる。三折の子秀庵は京都の賀川子啓に産科を学び、酒田で開業する。酒田・飽海における産科医のさきがけといわれ子孫が代々あとを引き継ぐ。 | |
| | 12月18日 | 光丘に種徳寺(五丁野への接待寺)建立不許可の幕命が本願寺を通して伝達される。(市史史料篇五) | |
| | 12月 | 御町方で町内組内の古着を買い集め、極窮の者に与える。 | |
| | | 忠徳が一大英断を以て農政を改革し、従来郷村へ貸与の米金を全部下され切りとし、還納に及ばない旨を達する。藩庁よりの貸与米8万3千300余俵、金1万3千800余両。その外代官の才覚に係わる米50万3千俵、金1万両及び大庄屋・名主の内才覚の米金は幾万か数がわからない。けだし白井矢太夫を始め藤嶋種耕院住職布山和尚の上書に基づいたものである。これより藩政は竹内・白井派の農政派が台頭し、貸付資本家本間家に依存していた水野派は勢力を失う。本間光丘も藩政から退けられる。(荘内歴史年表) | |
| | | 松山藩財政困難に付、本間次郎四郎(実は本間四郎三郎)が4千両を提出し、備籾蓄積資本及び郷村貸付にあてる。(松嶺町史年表) | |
| | | 海船の大浜・宮野浦へ瀬がかりした数522艘の多きに達する。当時、千石船の酒田、大坂間輸送料は約153両、船の長さ30メートル。北前船(千石船)は、一年一往復で、一往復すれば千両の荷物を積んだとか、千両もうけたといわれた。 | |
| | | 新井田川口の最上川山居谷地の〆切工事を行い、数年後に地続きとする。 | |
| | | 新地鷹町の粕商萬吉等8名が、新地稲荷宮の会式で博打をし、町内払いとなる。(市史史料篇八) | |
| | | 荒瀬町作蔵が肥料代集めに櫛引郷下名川村に行き、その地の円秀寺で殺され、住僧は出奔する。(野附文書) | |