寛政9年(1797)

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寛政9年17973月宝暦中に禁じられていた一人乗船の諸荷物運送を再び禁ずる。
4月藩主忠徳が将軍家斉の使として参内する。上京につき酒田から寸志金6050両、銭550貫、米1万200俵、蝋燭1万3千500丁、ほかに尾関又兵衛が200両を献上する。
8月3日本間光丘が海晏寺に釈迦堂・経堂・塔頭の瑞泉庵(以上3つは現存)を建立寄進し、この日入仏及び開眼供養をする。経堂は一切経を入れる輪蔵を入れたもの。輪蔵は回転式になっており、一回転すると一切経を読んだと同じ功徳があるとされる。同寺二十四世丹英和尚が建立を発願したが病いのため後事を光丘に託したことによる。京都の大仏師駒野丹下の製作で、海路を酒田に運んだ。2基で345両。1基は新田目の現大物忌神社に寄進したが大正年間に焼ける。釈迦堂の釈迦は大きな寝釈迦の金銅仏であり、京都の仏師に製作させたもの。本間新四郎が京都に出向いて注文した。阿弥陀三尊仏も納められている。瑞泉庵は海晏寺住職の隠居所で、柳小路にあった地蔵院の本尊地蔵(石造)をまつっており、以前は子供の葬式はここで行っていたという。なお光丘はこの頃、海晏寺で7日間に渡る授戒会を行っている。また毎年、同寺に仏供米として25俵を寄付する。経蔵には五代光暉(閑楽)、釈迦堂には三代光丘の座像(木造)がおかれている。
8月米沢藩の莅戸六郎兵衛が光丘に書を送り、海岸警備出兵費の借用を願う。光丘は3千両を貸与する。
9月22日藤崎村植林の功労者、佐藤藤蔵が没する。85歳。
10月24日大風により沈没船が多く死者300名に達する。(荘内史年表)事故
11月飛島で船が沈没し、多数の死者を出す。(荘内史年表)
白崎五右衛門が三人扶持帯刀を許される。
この年陰陽師の免許をうけた者を支配方に届けさせる。
四ノ町唐仁屋藤十郎が寸志金1500両を上納し、称誉に米百俵を下賜される。(県史資料篇一七)
白崎五右衛門一実が生まれる。