寛政10年(1798)

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寛政10年17981月俳人、玄武坊が没する。60歳。
2月28日六軒小路から出火し、西風のもとに秋田町・伝馬町・荒町・今町・中町・内匠町・寺町・大信寺・安祥寺・浄福寺・浄徳寺など640軒を焼失する。火事
3月10日本町七ノ丁から出火し、京風のもとに船場町・秋田町・出町など180軒を焼失する。火事
4月晦日新米屋町から出火して590戸を焼く。(酒井世紀)火事
5月藩で伊藤四郎右衛門と本間信四郎に5千両をあずけ、陸上荷物を引当てに貸付をし、商人の恐慌を救済する。(酒田町史年表稿)
6月15日光丘が酒田町罹災者に家作料助力として雑用銭元立引足銭より7千貫文を貸し付ける。(市史史料篇五)
8月初めて公認米会所ができる。米歩座方が不取締のため、町奉行黒川権太夫の発意で、真島二郎兵衛・越後屋藤兵衛を初めて頭役に任じ掟書を定める。
10月1日染屋小路から出火し、南西風のもとに本町・上中町・大工町・桶屋町・鍛冶町・肴町・捨物町・十王堂町・下内町・浜町・近江町・天正寺町・筑後町・新片町など671軒を焼失する。そのほか土蔵36棟・小屋42棟を焼く。火事
凶作のため村上地(むらあげち)が多くでる。
尾関又兵衛が寸志金5百両を5ヵ年献上し、永久二人扶持、町年寄格となる。
幕府からエトロフ等への物資輸送を命ぜられ、再び高田屋嘉兵衛が来酒し、松前向の物産を調査する。
儒者・医者の小松周輔が生まれる。(鍛冶町)
藤塚の酒田水門が内町組の佐竹弥右衛門によって再建される。
幕府は蝦夷地特に箱館開拓のために江戸商人栖原屋角兵衛等を委嘱する。その中に加賀屋与助・板屋惣兵衛・五十嵐七郎左衛門・渡部多市等4名の酒田商人が名前を連ねている。(「休明光記」幕府の蝦夷地取締奉行、羽田荘左衛門筆、鶴岡市立郷土資料館蔵)
内町組大庄屋佐竹(三丁目)弥右衛門あてに江戸在住の茶道宗徧流時習軒派の宗匠神谷松見からの手紙が数点くる。これにより弥右衛門は若いときからしばしば京都に上り、松見から茶道を学んでおり、陸泛斎の茶号を与えられ、今一歩で奥義を許されるまでになっていたことが知られる。また当時、酒田町組大庄屋栗林信右衛門や浄福寺脇寺の善称寺住職、荒町の鍋谷などが宗徧流を学んでいたことがわかる。これは玉川遠州流に先行するものと思われる。
三丁目弥右衛門が公儀御役人宿、酒田水門建直しなどの功により、酒田御町年寄格となる。(野附文書)
船方増運賃のことで、三丁目弥右衛門等大庄屋7名、年寄3名、船持代、船組頭、船肝煎等全員が戸閉となる。
荒瀬町きくと新地鷹町松蔵が妙法寺境内で相対死を図り、きくは死に、松蔵は負傷し組預りとなる。(野附文書)