寛政11年(1799)

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寛政11年17995月酒井内匠が城代を免ぜられる。
7月大洪水。山居松原の堤防が破れ、大手橋・新井田橋が大破する。(平野史年表)水害
8月15日数の子一升代120文、ぼうたら一かけ代75文、かつぶし二つ代33文、酢五合代40文、酒四升代400文、塩三升代66文、半紙九状代198文、大奉二状220文。(余目町史年表)
11月酒田町奉行黒川権太夫が物頭に転じ、松山藩家老松宮儀八郎がその後を継ぐ。
米会所へ出席の節は株札を必ず持参すること。持ってない者は決して会所へ入れてならないことが達しられる。
酒田の川船数は、二人乗以上(最上川)が248艘、「川々(赤川、新井田川等)小通船」は897艘、猟船65艘、渡し船33艘とある。
町役人が大小二刀の帯刀を願い出て許される。ただし年寄・大庄屋が歌舞伎見物の際は帯刀しないで並桟敷で見物することを達せられる。このとき鐙屋惣左衛門は「杖ならばころばぬ為につくもよし二本さしとはいらぬ年寄」とうたい、生涯、帯刀しないで町人の気慨を示した。
東蝦夷地が幕府の直轄領になり、本格的に蝦夷地と酒田との関係が始まる。
蝦夷からの仕入物を取扱う幕府の役人が酒田湊や石巻から船で蝦夷へゆく。
幕命により大浜で御城米船を建造する。(亀ヶ崎足軽目付御用帳)
儒者・医師の風間寛斎が没する。
勝保関村与五右衛門が御料所酒の請負人となる。(宇治家文書)
この年にできた手蔵田上地蔵堂にある「湯殿山」と彫られた出羽三山供養塔が酒田では一番古く、この頃から三山信仰が広まったと思われる。