寛政12年(1800)

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寛政12年18004月山王祭礼の神宿を二人とする。
9月鳥海山山焼。(砂越来迎寺年代記)
11月飛島3力村のうち25軒のものが古くから新堀川へ2隻、新井田川へ5隻、産物を積み込み、春から秋にかけて郷方に売りさばき、米またはわらで受取っていたことに、船方たちが異議を申し出たが許されず、そのままとなる。
12月新庄藩が蔵元を伊勢屋・加賀屋とする。
本間光丘が浄福寺の山門(唐門)を建てる。京都の東本願寺宗祖廟を模したと伝えられ、建築的には「四脚向う唐門」とよばれる。この様式は桃山時代後期から流行したもの。総ケヤキ造、木割法の割出しに頼らず、耐震構造に重点をおいた流麗な建築美と、瓦を左右葺き分け流れぶきにしていること、道路や本堂との距離の均衡のよさ等、最上の格式と優秀さを誇っている。酒田における代表的建物。市指定文化財。
廻船問屋は他国船頭や商人を宿泊させ、蔵敷料として1%をとる。また商取引の際、保証人となり売買口銭(売口銭百両につき1両、買口銭100両につき1両2分)を徴収し、収入源としていた。従っていくら長く泊っても旅籠でないというので宿泊代はとらなかったといわれる。
高田屋嘉兵衛が手船辰悦丸で酒田~エトロフ間の航路を開拓する。
藩主忠徳が勤倹躬行し、広く人材を登用、特に本間光丘をして縦横に劃策させ、財政の整理や農政の改革に心血をそそいだ結果、安永元年、庄内に着任したとき、藩には20万両の負債があったのに、それを完済した上、さきには幾十万の米金下され切りの大徳政を布いたにもかかわらず、今年に至り20余万両を蓄えるようになり、江戸では神田橋の大黒とうたわれる。(荘内歴史年表)
飛島の問屋掟がきめられる。問屋数は本間又右衛門等13軒である。(問屋会合帳・本間又右衛門家蔵)
歩座の証拠金として普通取引きでは百両につき40俵ずつ双方から掛け合せていたが、この年から半分の20俵に減じる。
長翠が奥羽を行脚して、白石の乙二・秋田の五明・盛岡の平角らを訪ねる。
この頃黒森に地蔵堂が建立され、竹林庵と称する
白井矢太夫が鳥海山麓に150町歩の新田を開発し、民家52戸を移住させ、白井新田と称する。(荘内歴史年表)