元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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享和3年 | 1803 | 2月 | 下日枝神社に長翠門下が俳額(長翠筆)を奉納する。その中に「雲の峯たつ頃青き世界かな」の長翠の句がある。 | |
| | 8月30日 | 天才的相場師本間宗久が没する。熊次郎・伝次・久作・古作・光信・久米。享保2年に生まれる。富豪本間家初代久四郎(原光)の五男。二代目を継いだ長兄庄五郎(光寿)が晩年病気がちとなり、宝暦元年、宗久35歳のときその委託を受けて、宗家の家業を引き受ける。商売を手広くひろげて米相場で巨利を博し、座頭連判貸しを創始するなどして酒田での大商人の地歩を占める。同4年甥の四郎三郎(光丘)が帰郷して宗家の三代目を相続すると、翌年宗久との間に不和を生じ、義絶される。船場町に住む。安永3年、58歳のとき隠居、江戸に上って根岸に移り、江戸藩邸の御用金として2千両を庄内藩に献じ、上野寛永寺に出入りして輪王寺宮に仕える。のち罪があってこれを辞し、その後米相場や大名貸しを始めて持ち前の才覚を発揮、巨万の産をつくって根岸の本間と称された。宗久の子喜内は19歳のとき早世したため、妻の生家田川郡新堀村(現在の酒田市地内)加藤勘右衛門の次男猪四郎(光林)を養子として跡を継がせる。87歳で没し、江戸下谷坂本町随徳寺に葬られる。米商の秘伝書『本宗莫耶剣』を遺す。この書は現在でも相場の虎の巻として珍重され、最近はアメリカでも研究されている。 | |
| | 9月 | 飛島勝浦村で39戸を焼失する。 | 火事 |
| | 12月25日 | 米沢藩家老莅戸善政が没する。69歳。善政字は子雲、太華と号す。通称九郎兵衛。のち六郎兵衛と改める。米沢藩中興の元老。かつて藩主治憲の内旨を含んで酒田に微行し、本間光丘に面会して、藩政回復の計画を告げ、援助を懇請した時、菅原道真公の自画に賛をして、至誠使命を全うせんことの意を寓したという。 我が禱る心まことにまことあらばまもらせたまへ天満る神 光丘は善政の赤誠を見て大いに同情し、その援助を快諾して以来、両者の交情は骨肉よりもまさる。善政自筆の当時の紀行文は、今本間家に在り、最上川の要所を写した絵を挿入する。(酒田港誌) | |
| | | 飛島の本間又右衛門家には、享和3年から毎年の客船帳その他の古文書がある。 | |
| | | 公許前の花街は、記録「さかたいままち女郎しゆ」にあげられている屋号からおして、この頃すでに今町のみで三十数軒以上の茶屋があったと思われる。 | |