文化元年(1804)

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文化元年18043月隠し遊女を厳禁する。
4月2日内匠町から出火し、南西風のもと下内匠町・荒町・山王下・今町・観音通りなど450軒を焼失する。火事
4月6日米屋町組新町から出火し、片町・八軒町など300軒を焼失する。火事
4月本間家は大火による罹災者救済のため、銭4,750貫文を永年賦年利三歩で貸付ける。ただし、その利子は各町用銭として備えさせる。以後恒例となる。
4月岩間安友がくる。明朝早く舟に乗るべしとて、各宿所え帰り少し旅装して翌二十五日の朝五ツ時、この湊を馳出し右に大浜・能登興屋・小湊よ呂海・白木・青塚村を見残して北に向ひ一馳けるほどに、五、六里が程地方の浜辺を見ること近し、しかるところ俄に風替りてあいの風となる。則ち西北風にて嶋のかたよりふく風なれば舟の進み行くことならず、船頭もせん方尽きて、一先ず酒田へ引返さんとて帆を廻せば、忽ち大浜にぞ漕ぎ戻しける、さてさてほいなき事かな、今しばらく待たせ給へ、また、東風に吹きかへす事もやあらんとて、色々面白き嶋(飛島)ばなしなど致し、我々が心を慰め東風を相待ち居る。
5月藩に東海諸川工事の助役を命ぜられ、金2万1,320両を費す。(荘内歴史年表)
6月4日夜10時ごろ、鳥海山を挟んだ庄内北部と秋田県南部にわたる日本海沿岸で大地震が発生する。震源に近い遊佐郷の被害が特に甚大で、死亡者109人にのぼる。地震による液状湧出水が多数認められる。「庄内大地震の変」によると、遊佐郷・荒瀬郷の倒壊家屋の有様は「編笠のふせたる如く、人馬死すること数を知らず」と記されている。酒田の被害は亀ヶ崎城大破、大手橋二つに折れる。城代宅・家中屋敷・町奉行所・足軽屋敷を始め、酒田市中の町家・寺院など全半壊家屋1千軒を超す。焼失家屋23軒、死亡者16人、うち2人は焼死による。地震
6月12日12、16、27日川北洪水、田畑泥海と化す。水害
8月本間家は大地震による自家の罹災も顧みず、3千両を提供して被災者の救済に当たる。秋田の亀田・本荘両藩に対しても、夫食貸しや震災救助金を提供する。
9月蝦夷地御用船が暴風にあい、飛島に寄湊する。
11月27日新田開拓者奥井可長が没する。66歳。元文4年生まれ、寛政元年私費を投じて坂野辺新田のうち。“はんの木谷地”を開墾して奥井新田を草創する。
文化文政の頃、出雲(島根県)の大山脇湊に酒田船(主として本間船)が1年間に21艘も寄湊したことが記録されている。
うなぎは文化文政ごろ、仙台から持ってきて鶴岡の内川に放流したのが始まりである。