文化5年(1808)

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文化5年18082月光道が故本間弥三郎名儀で、家屋を船場町に建築し、新聞屋と号し、海船6隻を注文もしくは新造して船主となり、名代人をして海運業を行う。これは松前の開拓に伴う海産物の内地への輸出、特に鯡粕をこの頃から瀬戸内海で盛んになった煙草や綿、栽培の肥料として出されるようになり、いわゆる北前船の盛行をみたことによる。その後、本間家は明治維新まで、船主・海商としても活躍しているのであるが、案外知られていない。
3月5日杉山廉女が没する。70歳。藩士杉山宜葵の女、5、6歳より和歌を詠み、松宮観山に和漢の学をまなび、東都冷泉為泰に和歌を学ぶ。(荘内歴史年表)
3月23日雪解水と降雨のため赤川洪水。水害
4月4日本間家の日吉丸が完成する。(市史史料篇五)
5月白崎五右衛門一恭が町内に私費で火防用水槽170をつくる。
6月物頭加賀山竜治、神尾文治以下300人を飛島に派遣し、外国船にそなえて3力村に陣屋2棟づつをつくる。翌年引揚げる。(飛島誌)
7月本間光道が新鋭の銃砲若干をつくらせ、海路、酒田に輸送し、浜中および大浜で演習する。(酒田港誌)
8月酒田町役人から藩に広野谷地の開発を願い出る。
藩では領内の農夫を蝦夷地に移住させ、浜益・留萌地区を開墾させる。
幕府では各地に会所を設け蝦夷地御用達しを指定する。酒田では板屋惣兵衛・五十嵐屋七郎左衛門・二木(加賀屋)与助・渡辺多市の4人が命ぜられている。その後、鐙屋惣右衛門・根上善平・柿崎屋孫右衛門が蝦夷地御用商人となり、2000両または1000両の運上金で御用を請負う。(新撰北海道史第五巻)
文化5年から文政10年までの記録によれば、本間家が庄内藩の御用達廻船問屋として、藩の蝦夷地経営の物資廻送、特に出役家中の食糧米・酒(大山酒)・開拓用資材の輸送を独占的に請負っている。(市史史料篇五)
本間家の手船は、蝦夷地交易を機会に相次いで建造され、都合6艘に及ぶ。日吉丸・坂本丸・讃岐丸・近江丸・平安丸・玉手丸(のちに住吉丸と改める)。
今町の厳島神社には、「文化五年辰正月吉日道祖神宿帳」がある。今町の道祖神祭は盛大を極め、神宿飾りや御神体の渡御行列は、山王祭のそれをしのぐほどであったという。また、今町の料亭では金精さまをまつっている。
松山の砲術家山本丈右衛門を招き、浜中で諸種の砲火を試みる。(荘内史年表)
大宮村・遊摺部村等8か村が最上川河口での大網新設の取締りを願い出る。(余目町史)