文化6年(1809)

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文化6年18092月11日伊藤四郎右衛門等和が鶴ヶ岡城内藩主面前で能を上覧する。主演者は等和及びその養子四平らで一行五、六十名である。(市史史料篇八)
9月米沢藩士服部豊山が来遊する。酒田の伊東竹斎・大信寺釈大道・藤井子寛等と詩酒の交わりをする。豊山名は世経、字は子綸、通称与右衛門という。細井平州の門人、のち羽前上ノ山城主松平信行の賓師となる。
本間光道が長崎で図書を集める。光道は娘婿の藩士菅基を江戸等に派遣し、図書を購入させる。菅は書誌学者に事情をきいて、精力的に購入する。また菅は光道の命で本間家の蔵書印(鳩印・鳥兜印等)を作る。(光丘文庫本にあり)
12月28日本間光道が書庫を建築する。
光丘が西浜に植林を始めてから六十余年、この頃、ようやく風砂の害がなくなる。
白崎五右衛門一恭が山王山と日和山眺望図や、郷土の名所・古歌を木版刷にして配布し、酒田の観光宣伝に努める。
町年寄・町年寄格・三十六人衆・大庄屋・内町組長人・米屋町組長人等が御用で他所往来の節は、馬一匹、人足一人の先触を許される。士分と町人との身分制が大きく崩れる。
東北四天王といわれた俳人乙二がくる。うくいすにふくや御城の余風
大山・酒田間の街道運賃のうち、大山・浜中村間は「郷政録」に、荷一駄108文とある。
酒田船による鶴岡荷物運送は請負制であり、請負は入札でなく、酒田小舟方と町奉行・大庄屋との間の話しあいで一定の役銭額と年季をもって定めた。
初代斎藤与惣右衛門が豆腐屋から指物屋にかわって、箪笥などの箱物をつくる。
庄内地方豊作。(荘内史年表)