文化7年(1810)

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文化7年18101月城代酒井吉之允が隠居し、水野東十郎が定在番となる。
3月15日俳人柳下舎寸昌が没する。歳不詳。一雄房、出町の廻船問屋、豪商柿崎孫兵衛。はじめ前句付けの点者であったが、のち俳諧に転じて酒田の宗匠となる。天明8年、師の四時庵信夫の遺志を継いで門人とともに芭蕉が酒田を訪れた折の句「温海山や吹浦かけて夕凉」の句碑を日和山に建立する。
5月町方の諸番人を定める。(辻番人平日二人、城米囲中および公吏巡行の時は増員のこと)
8月青原寺で開基(檀越)志村伊豆守の二百年忌を行う。
10月18日植林功労者曽根原六蔵が没する。68歳。保業・子徳。中町の酒造屋碇屋六蔵(時保)の長男、伯父佐藤藤蔵の植林成功に励まされて安永8年の冬、大宮田村(のちの稲川村現在の遊佐町地内)に移住し、藩庁の許可をうけ人夫を募って砂丘地の植林事業を起こす。菅野墓地に葬られる。
11月常世田長翠は本間光道が船場町の下蔵に建ててくれた新庵に移る。
酒田湊増口銭免除運動は、村上郡の幕領全体のものとなり、この年から文政2年まで執拗にくりひろげられる。