文化10年(1813)

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文化10年18132月本間光道が草津湯の台鉱泉を試掘して温泉及び付近山野の開発を計画したが、村民の反対で中止する。この頃から農民の湯治が始まる。武士や光丘はすでにこの以前から湯治をしている。
2月酒井弾正が城代を免ぜられ、組頭里見外記が城代となる。
3月25日新片町より出火し95戸を焼く。火事
3月茶屋株が公許され、初めて娼家が今町に37軒・船場町に36軒おかれる。
4月14日筑後町より出火、363戸を焼く。本間光道は罹災者に米200俵を施与する。火事
4月町奉行山中伝太夫が、本間光道の寄付で柳小路の掘割を埋めて、盛り土し、高さ3メートルの防火土手をつくる。
5月宮野浦から最上川の中央をもって境界とする交渉があったが、川内は酒田地内と決まる。
7月白崎五右衛門一恭が火防用水槽と半鐘(10ヵ所)を寄付する。
8月俳人、常世田長翠が没する。61歳。本間光道をはじめ百人位の弟子を擁する。光道が建てた船場町の家に住む。蕉風再興に意欲をもやした。冬夜の詩人といわれ、当時、第一級の俳人と称される。俳句だけでなく、絵画や作庭・茶の湯・琴等も教えたと思われる。光道の財力と長翠の文化性をもって、酒田に文化の金字塔をうちたてた。酒田文化の大功労者である。『降り積む灰』『長翠自筆句集』(光丘文庫蔵)等の著書がある。文政元年春秋庵社が、日和山に句碑をたてる。 人の柳うらやましくもなりにけり  長翠 書は仙台の名僧南山古梁禅師。碑の裏面には同禅師が漢文で長翠の人となりを書いている。句意は芭蕉の人柄や蕉風の軽みを柳にたとえ、それがうらやましい、といったもの。本間美術館新館脇には吹浦から移転した享和元年建立の 苗松の筅葉くろし后の月 緑葉や実生の松ハ鏡哉 の句碑がある。
8月紀州日方浦の船頭橋本源助らが、廻船の安全を山王社に祈って日和山に常夜灯をたてる(現存)。神明山別当、法性院に毎晩の点灯を委嘱し、油代を払う。このとき東屋や方角石のある展望台(日和山公園の原点)を高く築造する。常夜灯には西廻り航路の各湊と問屋名が記されていて貴重。高田屋嘉兵衛手船中の名もみえる。日和山は船頭が日和を見て、出船を判断したところから、こうよばれた。細工人は紀州日方浦石屋伴蔵。北前船で運んできたと思われる。
10月15日町人が投機を好むようになり、五両・十両位の小商いをする者が多くなる。
10月尾関又兵衛の家計が不振となり、上納金不納のため永扶持をとりあげられる。
11月この月調べ当町鍛冶職91軒、うち58軒は古来よりのもの。
12月酒田消防株を定め、定火消の総人数を近江町多蔵ほか全町で65軒とし、焼印株札を渡し、みだりに売買することを禁ずる。また火消株の者に髪結株を特許する。
白崎五右衛門一恭が自家に壮丁三十余名を養い、衣食を給し、平常は随意にさせておき、一旦警鐘が鳴れば白崎家の家じるしである龍五のついた刺子の防火衣を着せ、火事場にかけつけさせ、白崎の火消しとよばれる。
この頃酒田は殷賑をきわめる。いわゆる化政の賑わい。
本間光道が下屋敷に別荘を作る。丁持達の冬期失業救済事業として始め、谷地に砂をもって整地した。鳥海山を借景として、蓬莱島を中心とする廻遊式庭園である。作者は不明であるが光道が深く師事した俳人常世田長翠が作庭家でもあるので、おそらくその指導や助言があったと思われる。東屋のそばの老松に鶴が飛んでくることから鶴舞園と名づけられる。建物は清遠閣。茶室は六明盧とよばれる。現本間美術館。
この頃諸国の珍石が綿積石(海神石)として北前船で酒田湊に運ばれ、本間家別荘・本間家本邸等、旧家や豪商の庭に使用される。特に本間家別荘には本間家の持船によって運ばれてきたと思われる珍石が多い。湊近くの神明社や下日枝神社境内や本間家等旧家の敷石には越前の青石(笏谷石)が多く使われている。鳥居や灯籠・石碑には兵庫や小豆島の御影石が多い。
三十六人衆が金7両と銭1貫300文で龍吐水1台を購入する。
武芸家酒田伝次郎(恒山)は生没年不詳。本性を明らかにせず、羽州の人と伝えられる。拳法に長じて、文化10年長崎に赴き、塾を開き拳法を教授する。同年12月同地諏訪神社に碑が建立される。
力士佐野山庄兵衛が没する。47歳。明和4年平田郷滝野沢村に生まれる。力士を志し、同郷の国見村(現羽黒町)出身の初代出羽ノ海に弟子入する。佐野山を名乗ったのは文化元年3月で、五度目の四股名。滝野沢には門人越ノ戸等が建立した「佐野山庄兵衛墓」と彫られた碑がある。
日向川大洪水。水害