文化12年(1815)

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文化12年18151月浦役人小幡周治が日和山塵捨場に、家を建てることを藩に願い出て許される。
2月27日文人、絵師大館約斎が酒田で没する。(年不詳)約斎は伯英と称す。名は璋・字は不知、相州小田原の人。絵を教えて本荘・秋田に遊び、酒田に滞杖する。師事するもの数十名に及ぶという。その子は江戸にあり、歌川国直と袮して、稗史(小説)の挿絵を業とする。(詩稿白崎良弥所蔵)
2月幕領の年貢を金納にすることを命ぜられ、租米の海送をやめて新井田蔵に納める。このとき1俵5斗2升入を、5斗1升入に改める。(酒田港誌)
2月本間光道に随時郡代所に出仕し、政務に参与すること、及び御雇船総用掛を命じられる。本間家が再び藩政に登用される。(上に同じ)
4月16日藩主忠器が政教一致の古制に復すため、会所(政庁)と学校の合一を計り、13年春より十日町口の会所に藩校移転の旨を布告する。(荘内歴史年表)
5月本間光道が髪結業者六十余名に丁持若干を加えて、消防別働隊を組織する。
11月4日本間光道が荘内藩々校致道館引移掛を命ぜられる。移建費用はすべて光道が負担する。
浜中植林の記録「浜中遺書面記録」ができる。(荘内経済年表)
伊藤四郎右衛門が大坂廻米雇船検分掛となり、大庄屋格となる。