文化13年(1816)

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文化13年1816正月16日今町の塞堂当渡しはことのほか華美で衣服には目を見張るほどの豪華なものを用いた。遊女、妻子も供揃の真似をし、他町にも出かけるようになったことから、他町に行くのを禁止される。(市史史料篇八)
1月下の日枝神社境内に、本間光丘の植林の功を録して加藤長助等両台町の有志が義財をつのり、松林銘をたてる。浄福寺住職釈公巖撰文。黄微武元質書並篆顕。
3月光道が酒田西浜各地の地上権を取得し、新絵図証文を下附され益々防風林の経営を拡充する。(市史史料篇五)
4月28日高野浜市太郎親子と船場町治助が鱒流し漁中、大坂の御城米船室吉丸水主から乱暴され、重傷を負うが海船側で6両出して内済にする。御城米船の船乗達が、幕府を笠に着ていばっていたことがうかがわれる事件である。(市史史料篇八)
5月大坂へ御城米登りの節は在番・御徒目付が御蔵へでて立会うこととなる。
御家中山口幸太等が今町観音参詣帰りの三ノ町医師伊藤維恭の弟子三省に乱暴を働くなどして取り調べられる。(市史史料篇八)
7月18日医師伊藤維恭が没する。69歳。是則・孔昭。桃井桃庵のもとで医術を学んで周貞および同郷の氏家玄勝とともに桃門の三傑といわれた。本町に開業し、かたわら塾を設けて医生の教育に当たる。これを鹿鳴塾と称す。妙法寺に葬られる。
12月15日光道が松山藩財政整理及び庄内藩学校(致道館)移転の功労に依り、御郡代次席となる。(市史史料篇五)
12月城代里見外記が中老に転じ、松平武右衛門がそのあとを継ぐ。
光道が硝子工を招致し製造させる。
この頃米穀歩座商いのほかにチョウアイと唱える空米商が流行する。
町奉行山中伝太夫が、酒田三町の出銭が多いのを改革する。
入湊の船数が減り、前年まで400余隻のものが、230~240隻にすぎない。
凶作、米価が高騰する。光道が酒田町に米1,464俵を献じ、救済に当たる。(酒田港誌)
御成箇米川下の無玉船の取扱いを御宿小路肝煎杉本屋善右衛門が行うようになってから、270~280隻の川船のうち、130隻だけが川下をし、他は手明き船になって難渋しているとして、御町方無玉船所持の者が預り地年貢米輸送は「手明き船」のみに命ずるよう願い出る。(県史資料篇一七)
年貢米の川船輸送をめぐり、船方ども150人余が浜千日堂に集合するという落文が出される。
庄内藩は白崎五右衛門一恭の火防に関する功労を高く評価して年寄格に列し、酒田町惣火消世話役に命じ、その後代々その跡を踏襲して明治に至る。
庄内藩が氏家天爵の木活をもって孝経・論語・中庸・大学を印行する。(荘内歴史年表)
天明8年よりこの年までの28年間に13軒の風呂屋が開業している。
出町に讃岐から金毘羅を勧請する。八幡地区島田には文化9年建立の金毘羅供養塔があり、北前船が盛んに入湊するようになるとともに、この頃から四国の金毘羅信仰が広まり、金毘羅参りが流行する。酒田でも讃岐金毘羅への酒樽流しが行われる。
鵜渡川原の百姓権之助が嫁を迎える婚礼の際、絹類を用い、倹約令に違反し、おごりがましかったと評判がたち亀ヶ崎足軽目付から取り調べられる。
上の山王社の社殿を再建する。