文政元年(1818)

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文政元年18182月石切職に税金を賦課する。
4月苗字御免以下の町人は、肝煎・長人であっても年始や五節句に裃を着用することができなかったのを肝煎に限り許される。(酒田町史年表稿)
4月から9月までの間、荒天で馬船のない時でも、馬先触れの分に限って、酒田の荷を宮野浦村まで運搬する。
7月5日岡本蒼竜(素対)が没する。平田郷漆曽根の大庄屋、本間家の援助で海浜松林の間に植草を行う。仏法に帰依し、青原寺住職金龍と交わり、俳諧をたしなむ。魯道の父。新町の稲荷神社に碑がある。
7月他国の者から家・地所を抵当にして、金を借り入れることを禁ずる。
8月春秋庵社中が日和山公園に長翠の句碑を建てる。
9月庄内五人組制度の復旧が達せられる。
11月25日伝馬町の富豪白崎五右衛門が没する、55歳。一恭・誠・子謙・文の舎、自治功労者。越前屋と称す。越前国南條郡白崎村の人。ろうそくの製造販売を業とし、のちに質屋のかたわら太物屋を営む。文化5年防火用水溜70余個、同10年には警鐘を寄付し、同11年野沢山に瓦工場を設けて庄内で初めての瓦をつくり、防火対策としての瓦屋根を奨励する。さらに町家の糞尿を集めて、村落に売却することを始めて、その利益で消防器具を整備したほか、白崎定火消を組織し、酒田町総火消世話役を命ぜられる。酒田の名所や古歌を木板刷にし、観光につとめた。安祥寺に葬られる。
三丁目玉鸞。今町の芸妓、書き物、縫い物をよくし、俳諧に長じて玉鸞と号し稀にみる才女と評される。豪商三丁目斗南に身請されて下内町の別宅に住んだ。斗南の没後、出家して尼となり、菩提をとむらう。この頃、70余才で没し、青原寺に葬られる。
藩主は非常時の備えとして酒田に豊年毎に籾200俵を賜い蓄積させ、本間光道に管理させる。酒田籾蔵の始め。籾蔵は現招魂社の所にあった。(荘内歴史年表)
高野浜には湊役所等が設けられ次第に人家が立ち、この年には40戸を見る。同4年9月茶屋渡世が公許され、今町・船場町・高野浜とうたわれ、三遊所となる。万延元年に高野浜を新町と改めた。明治27年の大震災以後は遊廓となる。
加賀の銭屋五兵衛の大支店が酒田に置かれる。本間家と盛んに取引をする。
風呂屋で盗賊が多いため、安売札溜銭をやめるように達しられる。これに対し湯屋側はこれをやめると客が減るからというので、監視を厳しくすることを条件に今までどおりを願い出る。
総戸数2,225軒。
羽黒山の大堂造営が落成する。(荘内歴史年表)
上・下日枝神社の里神楽は、文政年間に酒田の人が振付したものと伝承されている。
平田地区相沢にこの年建立の鳥海山供養塔があり、この頃から鳥海講ができたと思れる。
天明3年に劣らない凶作。(西小野方用留帳)