元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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文政4年 | 1821 | 4月 | 鳥海山噴火、噴煙を上げる。破方口と新山の中谷焼、七高山の後方矢島道の辺が焼破れる。(鳥海山史阿部正己) | |
| | 4月 | 山王祭礼の行列に梵天持のほか御制禁の衣服を用いないよう達せられる。(市史史料篇八) | |
| | 5月15日 | 出雲崎の高僧良寛の弟、歌人山本由之が来酒し、かねて知りあいの佐々木蒿重(船場町の廻船問屋本庄屋三郎兵衛と思われる。由之とは廻船問屋仲間であり、さらに由之は和歌、三郎兵衛は嵐雪という号を持って俳句をたしなんでいたことから、特に親しかったものであろう。屋敷は奥七の西向うの現富樫製氷のところである)宅に一年、和歌の師匠として滞在する。この間魯道・伊藤等和・白崎文錦堂と交わり、飛島を訪れ、『島の記』を、升田の玉簾の滝をみては『滝見の記』を綴っている。翌5年4月29日、酒田を離れ秋田にゆく。このとき由之は、裁判に敗れて、大庄屋の職を奪われ、失意のどん底にあった。 | |
| | 5月16日 | 京都の皆川文蔵が卒する。74歳。文蔵名は愿・字は伯恭・淇園はその号、また有斐斎・筇斎と称す。博覧強記、詩文書画に長じ著書数十種がある。易学に秀でる。学舎を建てて弘道館と称す。その門人およそ三千余名に及び、酒田の釈公巌・上林誡・結城潜等が学んだ。安祥寺にある上林白水の墓碑は淇園の文と書である。(酒田港誌) | |
| | 6月 | 城代が亀ヶ崎足軽諸組の弓・鉄砲の稽古を検分する。(市史史料篇八) | |
| | 7月 | 最上の川船持と酒田船方とが、賃銭について不和を生じ、最上方が幕府に訴え、享保規定通りの裁許がある。 | |
| | 8月11日 | 浄福寺十四世の住職釈公巌が没する。64歳。越後国に生まれる。はじめ上林白水に学び、のち京都にゆき経学、特に易学を皆川淇園に学ぶ。また普門律師について天文を修める。博覧強記にして詩文に長じ東本願寺の碩学となる。布教に活躍し、のち本山より異安心を問われ、尋問にあい、非を認める。『天台佛心即記』『一念多念義抄』『浄土論説解略』等著書多数ある。 | |
| | 8月 | 元和8年忠勝公入国から二百年につき亀ヶ崎足軽一同から藩へ御祝義を差上げる(市史史料篇八) | |
| | 9月 | 高野浜の茶屋5軒に抱え女3人を限りおくことを許される。 | |
| | | 新田義貞の後裔新田徳純が来遊する。徳純、名は文彦、鳳閣・柳塘・巌松隠士はその号。武州新田郡の城主。酒田に遊び、大信寺に宿す。書画を能くし、成就院に「亀崎道場」の大額を書す。現亀ケ城小学校にある。 | |
| | | 安祥寺の再建について青塚次郎右衛門に割当てた寄付金のことでもめごとがおこる。 | |
| | | 川船差配松田又作が曽祖父から四代勤続し、また今回の川船一件に尽力した功により永代川船差配を命ぜられる。 | |
| | | 菅野村の曽根原六蔵が植林の功により五人扶持となる。 | |
| | | 五丁野谷地新畑地に五丁野稲荷を建立する。 | |