文政9年(1826)

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文政9年18261月青原寺住職が舊臘極窮者へ内々に施行する。(市史史料篇八)
1月宮田角右衛門が極窮者に1日一人3合ずつの施米をする。鐙谷惣右衛門は町方丁持の極窮者に銭50貫文程を貸し与える。(上に同じ)
3月5日医師風間典膳が没する。49歳。大工町の医師国鸞の長子として生まれる。字は伯龍・文鱗・嚶斎はその号。米沢の神保蘭室について学び、のち医を業とする。(酒田港誌)
4月問屋株をもたないものの旅人宿を再び禁ずる。
5月「植付場の碑」が宮海字林内にたてられる。
6月三瀬駅が発案し鼠ケ関・浜温海・大山・浜中・酒田の六駅で、御伝馬の需要が多くなったことを理由に、藩に対し運賃の五割増を願い出る。
8月米沢藩の学者神保綱忠、蘭室が没する。84歳。細井平州の弟子。文風を振興する。酒田の白崎五右衛門一実・本間新四郎・西野・鐙谷・風間等が米沢に行きその門に学ぶ。後年、孫の乙平が来酒し、荒町に塾を開く。
9月藩主酒井忠器が領内沿岸巡視の途中、亀ヶ崎城に立ち寄る。(酒田港誌)
10月24日本間光道が没する。70歳。父光丘の遺志をつぎ、庄内藩及び米沢藩の財政に盡す。新問屋を営み、海商としての新面目を開く。また学者肌で酒田の文化に大きな貢献をする。美杜李の号で俳句をたしなみ、長翠の高弟と称される。 山吹の実ともならずと飛ほたる
天狗騒動の指導者長浜五郎吉が生まれる。三十六人衆の一人で問屋頭をつとめ、慶応3年膝打鉄砲の免許を取得する。明治2年秋、凶作のとき、飽海郡の農民を率いて酒田県庁に対し苦役の免除や夫食米の借入れ等の嘆願運動を起こした。「天狗騒動」と称される。五郎吉は2ヵ年の流刑に処される。釈放後の同13年11月下台町に移住、同16年1月に隠居した。
鎌倉光明寺の念仏行者称願がきて、酒田・遊佐などで説法し、評判をよぶ。善導寺入口には、念仏供養塔に称願と刻まれた碑がある。
台町肴屋渡世次郎助は極窮の中にも、母きくと共に家業に精を出し、祖母に孝養したことによって御廻国の藩主より妙法寺で、御称誉として扇子2本・手拭3本・金1両を下賜される。(野附文書・市史史料篇八)
飛島の法木村で45戸を焼く。火事
この年大豊作。