文政12年(1829)

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文政12年18293月米価騰貴、酒田札15俵3分。地前札16俵。4月より引き下ぐ。(荘内史年表)
5月24日医師、伊東文仲が没する。51歳。安永8年伊東見龍の子として生まれ、上の山で医を業とする。漢詩に長じ『玉壷堂詩集』三巻を著わす。妙法寺に葬られる。
7月菅江真澄が没する。76歳。旅行家、本名を白井英二といい、三河豊橋の人、博学にして和歌書画を能くする。天明4年9月22日、新堀より最上川を渡り、酒田・吹浦を経て、秋田領に入り、病んで角館町に没する。(酒田港誌)
10月渡し守・丁離・非人の小屋に、他所人を宿泊させたときは、本町六ノ丁河岸にある徒目付詰所に届けでるべきことを達する。
11月7日富本節の繁大夫という地方廻りの芸人が来酒し、今町の遊里に宿り、翌年2月2日まで滞在する。その間のことが彼の日記『筆満可勢』にこまかに記されており酒田の風俗、とりわけ今町の有様がいきいきと描かれていておもしろい。
11月洪水。水害
11月茶人渡部貞薫齋一僖に東都荒木貞耕齋一英から、遠州流の系図一巻が伝えられる。
12月8日湯殿山行者鉄門海が没する。72歳。恵眼院。鶴岡大宝寺の森太郎左衛門家の出、寛政8年酒田に来て施療、その後、海向寺に住して教化に当り、入定して即身仏となり門弟らによって大網村注連寺に祀られた。庄内各地に鉄門海の石碑がある。いわゆる霊能力を発揮した偉大な宗教者だったと思われる。
この年出された庄内金持番付を見ると、行司に本間正七郎・伊藤四郎右衛門・鐙屋惣右衛門、西方酒田方面の大関唐仁屋森藤十郎・関脇に青塚治郎右衛門・小結に柿崎孫兵衛等の名前が見られる。
田畑質入地は年期中でも請返させる。また貸金10両に作徳米2俵をこえることを禁ずる。
鶴ヶ岡城を全部瓦葺とする。
本間光暉が安売米座に1300俵を提供する。
浜中村で請負っている駅馬継立が非常に忙しく、給米15俵余では不足として、塩年貢と屋敷や畑年貢の免除を願い出る。(浜中村遺書)
古峰ヶ原信仰が広まり、伊勢参りの途中、日光や古峰ヶ原にゆくことが盛んになる。内町・中の口町・山王堂町の各町内で舞われる天狗舞はこの頃、古峰ヶ原講中により、盛んになったと思われる。これに対し、稲荷神社をまつっている町内では主として獅子舞である。
絵師筒井雲泉が寺町に生まれる。幼少のころより絵を好む。文政年間60歳ぐらいで死亡。下山王社拝殿の額「蝦蟇仙人」と「童子」の二点には門人常南の押印がある。