天保元年(1830)

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天保元年18302月狩川組・清川組の村役人より、酒田小舟の宿船では故障が多いので、大船に「宿替」したいという願書が出される。
5月5日素封家藤井伊平が没する。56歳。豊明、代々久三郎と称した。藤井家の八代目で文化初年酒田から浜田村堀切に移住、文芸を好んで彫刻の技にすぐれる。大信寺の欄間等多くの寺院の彫刻物を彫り、自宅に大庭園を作って名園と称される。文化3年私費を投じて遊佐郷の鳥海山麓に新田開墾を企て精魂を傾けること3年におよんだが冷水のため稲は実らず、ついにこの地に一千俵の米を添えて返納した。釈知足。大信寺に葬られる。
6月質業者37人に株札を渡す。
10月5日俳人岩二(竹内多兵衛)が没する。69歳。宝暦12年生まれ。玄武坊の門人で妙法寺付近に住む。武長百合坊とともに酒田俳壇で活躍する。妙法寺境内に「夢なれや過こし年の月も花も」の句碑がある。
10月10日幕末に維新回天のさきがけとなった志士清河八郎が清川斎藤治兵衛の長子として生まれ、元司と名づけられる。(荘内歴史年表)
10月凶作につき穀類の沖出しを禁ずる。
12月出町の廻船問屋柿崎孫兵衛が窮民に施米する。(合計22石3斗2升、この恩恵に浴したもの家数にして448戸、人数1,433人)
12月下旬米価が上る。酒田札15俵9分。(荘内史年表)
能登興野出身で船場町で廻船問屋を営んでいた小山八右衛門はこの頃しだいに家業が振わなくなる。
彫工北風東雲(文次郎)。生没年不詳。北風孫三の子として生まれ、天保年間、酒田筑後町に住む。彫刻師後藤三惣に入門して彫工となり名を知られる。林昌寺に葬られる。
新井田蔵米の差米(抜取米)を多く取ったことで、蔵方組外伊藤喜兵衛は斬罪、その他の蔵方二十数名も処罰される。