天保2年(1831)

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天保2年1831正月6日出雲崎出身の僧良寛が没する。75歳。良寛は越後出雲崎の人、姓は山本、薙髪して大愚良寛と称す。大忍国仙の弟子となり、玉島円通寺で修行し、印可を受ける。性恬淡・寡慾・奇行に富む。和歌・漢詩及び草書をよくする。漢詩と書は日本随一といわれる。幼な子の純粋性と聖者の悟境をあわせ持っていた。明治の学僧原坦山は、「永平高祖以来の巨匠」と激賞する。久しく国上山の五合庵に住する。亀田鵬斎は北越に遊び、良寛の書をみておどろいたという。弟の由之が来住する。 最上川くだる小舟の苫あれて月もり来る板敷の山(山形市篠原吉次郎蔵) 我ありと頼む大こそはかなけれ夢の浮世にまぼろしの身を 沫雪の中に立ちたる三千大千世界またその中に沫雪ぞ降る
4月5日大納言庭田重嗣が薨ずる。重嗣は京都鷹ケ峰源光庵に住し、和歌の巨匠。入道して一位祐真といい通玄舎と号する。僧魯道・白崎五右衛門(一実)・太田竈賢(大泉坊)・釈大道(大信寺)・佐藤正明(三彌記)等皆その門人となる。
4月葬式や石碑を大きくすることを禁ずる。墓碑は台石共高さ4尺(1.2メートル)をかぎり、院号や居士号をつけることを禁ずる。
12月本間光暉が飛島村大野畑の川缺復旧護岸工事費を提供する。この工事は14年後の弘化4年に竣功する。
浜田の藤井伊兵衛が新井田蔵修繕の管理を命ぜられる。
本間光暉が酒田町非常備籾取扱掛となる。
白崎五右衛門一実が酒田町医修行引立掛となる。
出町の豪商廻船問屋、柿崎孫兵衛(現ノバハイツ付近、700坪を有する)は全焼した妙法寺の本堂や庫裡・位牌堂・客殿・番神堂を独力で再建する。
この頃、弁財船の船首のソリを大きくし、船巾を拡大し、多量の積荷ができるようにする。
入会谷地での草刈のことから、宮海村・上林興屋村と、上藤塚村との間で乱闘となり、多数の負傷者が出る。(砂防林物語)