天保3年(1832)

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天保3年18321月12日光暉が日光山御用途として藩へ金1万両を提供、金2千両を献納する。(市史史料篇五)
2月12日本間光暉に米沢藩より凶作につき1万5千俵の買入を依頼される。
庄内累年貯え多い故、民飢せず死せず、随分堅固、その上領内に本間と申す者、出羽方第一の物持の由、毎日粥を数百人に施し、また奥羽二州の大小名に米穀数多出し用達をする。(市史史料篇五)
2月老中から米会所準則を達せられる。
3月湯屋取締規定をしく。
5月前から沖出停止の品、蝋・うるし・銭・銅・鉛・荏菜種・水油・油糟・小糠等の沖出を重ねて厳禁する。
8月最上川の落野目の処が川欠となる。(荘内経済年表)
8月旅籠屋旅人宿泊規定を設ける。
9月11日本間正七郎の手船日吉丸、沖船頭宗助が米を積み、11日辰巳風で酒田を出帆し、加茂辺より荒天となり入湊しようとしても入津できず、寅卯の風で勝浦に入る。濡米954俵、流失米100俵を出す。(飛島誌)
10月光暉が亀ケ崎下川原普請掛となる。
12月7日光暉が酒田町安売座に米1千俵を提供する。(市史史料篇五)
この頃から今町弁天社の祭礼を5月15日に改め、今町遊女の趣向で3日間盛大に行う。
白崎五右衛門一実が、町用金受払方となる。
この頃浄福寺十五世公海が寛政10年焼失したままになっていた本堂等を竣功する。
長人、須田五兵衛が大庄屋格となる。
教育者矢島晁英が生まれる。斎治・東山。矢島喜固の子として鵜渡川原村に生まれる。明治後は学而館で句読師をつとめる。明治15年には郷里鵜渡川原小学校の校長となる。亀ヶ崎小学校に碑がある。
この頃、尾関又兵衛をはじめ船頭中が出町の金比羅神社に出雲型(頭を伏せ、尻をあげている)の狛犬(来待石)を寄進する。このほか下日枝神社の石段を上ったところの稲荷神社には明治20年7月出雲国鵜崎浦明勢丸船頭栄平が納めたものがあり、また地方製だが同型のものに下日枝神社境内の八幡神社にも尾関が納めたもの、今町弁天さん・元泉の和泉神社・浜中の石船神社・下内町の秋葉神社・矢流川の八幡神社等にもある。この狛犬は、北前船による出雲地方との交流を物語っている。出雲からは主として銑鉄を持ってくる。