天保4年(1833)

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天保4年1833正月池坊華道の原理を伝える「仙伝抄」のあとの方に“年頭祝詞”があり、華道免許者として柿崎吉兵衛・久村利兵衛ら15名の名がみえる。
5月大日照り。
5月白崎五右衛門一実らが、本町六丁目医師佐藤蒿庵宅に(現鶴岡信用金庫酒田支店)医会所「十全堂」をつくり、医術の研究と貧民の施療に当らせる。十全堂と命名したのは江戸の儒者朝川善庵であり、白崎一実が依頼したもの。十全の語は「周礼」の天官医師に出ており、医師は一つの失敗も許されないという、厳しさを示している。
6月26日最上川大洪水。平水より六片増水し、大災害となる。茨野・小牧村の土手が破れ、亀ヶ崎城の橋が流される。638戸が浸水する。いろは蔵の濡米4万俵を出す。穀菜九分通り流され飢饉迫る。水害
7月17日飢饉につき麦・大豆・小豆・小糖その他雑穀類の他領指し出しを停止する通達が出される。
7月21日光暉が鎮守下山王宮に画額「楠公父子訣別」の図を奉納する。(市史史料篇五)
7月26日米穀が底をつき、稲作不熟で困窮者が多く出たため、米穀の他領移出が停止になる。
9月1日夜、飢饉の最中、田川郡由良組水沢村の米搗屋二軒が米を買占めて値段を釣り上げたことが原因で、温海組の百姓多数に襲撃される。この事件の後、庄内藩は両城(鶴岡・酒田)八組郷中その他に、それぞれ1千俵ずつ、合計1万2千俵の救米を拠出し、民生の安定をはかる。
9月26日刈り上げ前の田圃一面に30センチメートル余りの雪が降り、大凶作が決定的となる。米価は10両に11俵と高騰する。
10月26日午後4時ごろ大地震発生。全半壊家屋480軒余り出る。特に米屋町組に被害が集中する。津波が発生し、川船や漁船27艘が破壊または流失する。地震
10月大凶作につき酒造停止の通達が出される。また、隠し酒は厳重に吟味する旨の達しがある。
10月物価稀にみる高値、米1升120文、また金銀不配当のため秋・来春の無尽を停止する。
12月11日飢饉のため白酒・濁酒・甘酒の手造りと売買が停止になる。
本間光暉は酒田町窮民に米及び2合粥を施与する。また、安売米座を再開して、救済施粥所を海晏寺に設ける。
柿崎孫兵衛が御用達を命ぜられ郡代支配となる。
粕谷工内が火災のため身上不如意になり三十六人衆退役願いを出したが、仲間から、書記役を勤めさせしばらく時勢を待たせたいと願い出る。
庄内に傷寒が流行する。酒田は最も甚しく、死者が多く出、棺屋では2千個の棺を売りつくしたという。病気