天保5年(1834)

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天保5年18341月光暉が酒田町新穀喰継(くいつぎ)扱方並びに合積(ごうつもり)締方となる。
春、加州米を藩で買い入れる。
1月穀改めと合積りの結果を、1月16日まで大庄屋へ報告させる。
正月合積りとして1日、男5合、女4合、召使男5合、女3合に定め、新穀までの領民の飯量を計算し、一方、穀改めをし、不足分を他国から購入し、領内から一人の餓死者をも出さないよう善政をしいた。穀改めの際に出された文章は、民を思うまごころのあふれた名文である。
正月僧良寛の弟、山本由之が没する。73歳。酒田来遊のことも記されている『山本由之日記』がある。(酒田港誌)
2月本間光暉は酒田町安売米座に1千両を寄付し、施粥普及につとめる。
2月13日光暉は米穀買付けのため、手持船を大坂・加賀・九州肥後に走らせていたが、この日、加賀本吉紺屋の船が肥後米を積んで酒田湊に入る。この後、能登や加賀の船が次々と入湊する。そのため湊を整備する。
2月16日素封家藤井伊兵衛が没する。歳不明。子寛。浜田村堀切の大地主藤井家八代伊平(豊明)の子。天保2年庄内藩の命をうけ新井田蔵の修繕管理に当る。俳諧をたのしんで佳トと号す。
3月16日藩令により海老名七郎治が御買上米用金才覚のため、本間氏を名乗り、加茂秋野等とともに加州に出向する。他国商人にとって庄内藩よりも、本間家の方が金を貸す際、信用があったことによる。この頃から「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と、うたわれるようになったものと思われる。(市史史料篇五)
3月海晏寺に施粥所を設けて、1日千数百人の窮民に施粥を続けて命をとりとめたことが、正徳寺境内の「天保飢饉宝篋印塔」に刻されている。
4月傷寒病のため、酒田ではこの月までに3千人の死亡者が出たと「天保飢饉覚帳」は記している。仙台・南部・津軽・秋田辺より袖乞の者が多く来て、村はずれ等で倒れ死ぬ。
5月下台町から出火して180戸を焼く。(酒田港誌)火事
7月22日富豪、伊藤四郎右衛門等和が没する。69歳。号を花笠・黄梅・または猩々庵という。俳諧と絵画にすぐれ、もっとも謡曲・能楽に通じ、江戸から大久保之耕を招いて師事する。分家平四郎の子として生まれ、のち本家養子となる。
8月三十六人衆の長人へ、貯穀の奨励と質素倹約が通達される。同月、庄内藩から町方へ倹約や貯穀をすすめる達しが出され、数寄屋風建築や鶏・家鴨・飼鳥以外の生物の飼育を禁じ、菓子類、酒類にも無用の米穀を費やさないように戒める。
9月城代松平武右衛門が家老に転ずる。
10月凶荒による困窮者救済米として、300俵が町奉行所へ配布される。
医師氏家玄勝が没する。
天保時代、酒田で玉川遠州流が盛んになる。大信寺茶会記には伊東文中・藤井茂兵衛・柿崎孫兵衛:永田茶右衛門・加賀屋新兵衛・白崎五右衛門・池田藤六郎等おおよそ60名もの名が記されている。
浜中石船神社の「粥座明神由緒書」には、藩からの施米で天保5年秋の新穀が出廻るまで、1千500釜の粥を焚き、村中から餓死者を出さずに済んだと記されている。その後、毎年粥座祭をして藩主の恩をしのぶ。
平田郷小女房村の喜性という老人が「飢饉口説いろは短歌」をつくる。(咄しの種瓢)
最上川口深さ一丈位(3メートル)(酒田港誌)