天保6年(1835)

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天保6年18351月27日伊勢参りの自粛が通達される。
3月本間光暉が下の山王社境内に、松苗2千本を補植する。
5月問屋規則が改正される。
6月加藤弥次郎が定在番となる。
7月藤塚村の水門が破損する。
8月田畑の作物不熟につき、米・大豆・小豆・雑穀・小糖の他領出を禁ずる。
本間光暉は酒田町に凶荒救済費として金1千両を寄付する。
致道館で孝経・詩経・書経・周易解等を飜刻する。飜刻者本間直記。(荘内史年表)
酒田・鶴岡間に、初めて日通船が航行する。船乗場は鶴岡は荒町橋近く、酒田は伝馬町からおりてくる船場町河岸であった。主として赤川を通るもので、天候によっては黒森辺に一泊した。(酒田港誌)
浜中で初めて若桃を栽培する。その後長右衛門・又右衛門らが藤崎村の桃苗を移植し、しだいに改良を加える。(荘内経済年表)
この年から明治5年までの「蝋燭屋仲間帳」によると、蝋燭屋の数は、22軒となっている。(根上善兵衛家文書)
家屋敷担保の借金証文には、町奉行が検印すべき旨が達せられる。この頃町屋敷の売買がようやく激しくなる。
大平村の御試馬牧が中止となるが、将来に備えて、飼料代を二割引で出される。弘化2年に飼料代も停止となる。(大泉掌故)
金主酒田本町五ノ丁勝次郎、染屋小路理助より、青沢村亀倉と清川組瀬場村での銀・鉛の発掘を願い出て、同13年に許可される。(県史資料篇一七)