天保7年(1836)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
天保7年18366月13日光暉が米沢藩の飢饉につき米3,500俵を提供する。(市史史料篇五)
7月23日光暉が御米置場および付近の川欠普請掛となる。(酒田港誌)
冷夏のため、夏でも冬物を着る寒さとなる。このため大凶作となり、米価高騰する。おおばこや、蓮の実、青芽を混ぜた食物で飢を凌ぐ。
9月5日最上徳内が没する。83歳。駒込蓮光寺に葬むる。楯岡に生まれる。本姓高宮、幼より書に親しみ、壮時、江戸に上り、天文・地理・数学・測量・航海の学を修める。天明5年3月、幕命により、青嶋俊蔵に随行し、北海探険に当る。近藤重蔵・間宮林蔵等の千嶋樺太探険の先駆をなす。文化4年、奥羽地方の海岸防禦の事にあずかり、2月庄内海岸を調査する。(郷土の偉人最上徳内)
9月本間家は酒田安売米座に1千俵を拠出する。
10月地銭の沖出と他所出を禁ずる。
秋中に至り大飢饉。米1升、170~180文、酒1升400文となる。藩では仙台より米を買い入れる。人多く飢死する。(今町菊地家文書)
飛島の浦村対法木・勝浦の漁場争いが落着する。(飛島誌)