天保8年(1837)

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天保8年18371月9日本居宣長の高弟、服部菅雄(駿州島田の人)が酒田で没する。63歳。源氏物語の研究家、和歌をよくし、絵に長じて桜を得意とした。酒田では白崎五右衛門一実・魯道・佐藤三弥記と交わる。『千世園旅日記』は遺命により白崎一実に与えられたが、その後焼失する。寒苦をおかして、國学をひろめるため来酒し、下日枝神社や安祥寺の境内に泊る。今町の木賃宿喜八で没し、持地院西の松林に葬むられる。菅雄のことは、池田玄斎の「弘采録」「病間雑抄」(光丘文庫蔵)にくわしく書かれている。(服部菅雄伝の研究)
 よる浪も清き浦わの月影に鳴音玉ちる小夜子どりかな菅雄
2月光暉が酒田町非常備籾仕法取計を命ぜられる。(荘内経済年表)
5月8日松前坪田権重郎船7人乗、外乗客6人が新潟を出帆、8日暮六ツ(午後6時)頃粟生島沖で暴風に遇い、船津万太夫・伊藤屋伝右衛門の二人は海中に墜ちる。9日昼四ツ時、(午前10時)粟生島沖で越中放生津海老屋彦右衛門船に乗移って八ツ時(午後2時)飛島に入湊する。(飛島誌)
7月大坂藤田屋の城米積取船が鼠ケ関で難船する。溺死2人、濡米1600石。
10月18日台町持地院門前にすむ治郎助の老婆ツヤ(鶴岡生まれ)が114歳で没する。持地院に葬られ、同寺に墓と碑がある。酒田地方における最高齢者。(弘采録・本間家日記)
10月穀物豊作につき、穀出しを解禁する。
10月藩主忠器が将軍家慶名代として上洛する。(荘内歴史年表)
11月15日天保4年の飢饉における犠牲者を供養するためと、凶荒の窮民を救済した町奉行小川渡太夫と富豪、本間光暉・白崎五右衛門一実・伊庭屋安右衛門・医師佐藤蒿庵らの徳に報いたるため町民が正徳寺境内に宝飯印塔をたてる。表面碑文は小松周輔撰。裏面の碑文は須田古龍撰で、大正7年9月宝篋印塔を現在地に移転の時に台座に入れる。(市史史料篇五)
12月光暉が用金を献納して御米置場及び上下川原普請の一部ができる。(荘内経済年表)
12月町民の窮状は4年同様に陥る。光陣は酒田安売座に米1900余俵と金157両を提供し、外に米887俵、銭77貫文を施与、その後これを例とする。(市史史料篇五)
海晏寺二十八世海山智門が没する。慈悲に富み、徳が高く、本間家の帰依を受ける。