天保10年(1839)

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天保10年18395月22日庄内の蘭学者、小関三英が江戸で自刃する。53歳。三英は庄内藩の下士の家に生まれ、少年時代致道館に入り、長じて江戸に出て、蘭学を修め、のち長崎に至り「シーボルト」に学んだ。幕府に出仕し、飜訳方となる。交友のあった渡辺崋山・高野長英が「蕃社の獄」で投獄されたため、禍が身に及ぶのを恐れて江戸赤坂で自刃する。嗣子高彦も蘭学者。
6月28日大洪水。酒田御蔵米3千俵余が濡米となる。水害
7月御城米船をはじめとする難破船の荷物陸揚の際の部署を定める。
問屋規則を改正する。
この頃、藩主忠器が大勢の女中を伴い、新装なった本間家別荘に遊び、大変な歓待を受ける。このことを口さがない女中から誇大に語られ、江戸の話題となり、これが倹約令に反するとして、庄内藩転封の一因となったといわれる。
佐竹弥右衛門が納屋役を引受け、最上川鮭漁を増していく。(野附文書)
飛島の入湊船数404隻・乗組人員1,257人・澗役銭68貫432文。(飛島誌)
飛島浦村の船難破で4人が水死する。