天保12年(1841)

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天保12年1841正月20日白崎五右衛門一実が江戸より帰って奇禍に遇う。一実、人となり剛毅、身を忘れて公に勤める。酒井侯転封の事変が起ったとき、たまたま江戸にあって、佐藤藤佐と共に利害を矢部駿河守定謙に説き、大いに主家のために盡瘁する。また藩邸当路の内命を受け、陽に川越藩に接近し、陰にその動静を探り、貢献する所があった。しかも事は極めて機密に属し、その真相を知るものは稀であった。庄内の農民は一実が川越藩に出入するのを見て、国賊と称し、2月朔日大浜で農民の大集会があったあと、昼と夜の2回にわたり、相率いて伝馬町の宅に石を投げる等をし、五右衛門を害しようとするに至り、藩吏が出てこれをおさえる。のち藩では五右衛門を鶴岡に召喚し、糺明して実を得るも、すこぶるその措置に窮した。藩老松平舎人はよく斡旋し、本間光暉は酒田町奉行小川渡太夫と謀り、稟請する所があり、同年12月19日初めて帰宅を許される。(飽海郡史)
2月転封阻止運動は全藩的結合を実現するという形式をとっている。
転封阻止運動は益々猛烈を極め、前年末、潜行の領民等は正月20日、大老井伊掃部頭・老中水野越前守・太田備中守・大井大炊頭へ登城の途に訴状を呈する。一方庄内の百姓は閏正月27日・2月1日・10日・29日の4回にわたり五丁野谷地を始め、大浜・藤島六所権現の社頭等に2千人または3千人の大衆が松明を灯し法螺を吹立て「百姓たりとも二君につかえず」「居成大明神」等の旗を暁風に翻して集合し、転封停止の方法を議論する。中でも川北農民の運動は最も熱烈で、3月総代6名が水戸に至り中納言齊昭に直訴する。(荘内歴史年表) 転封阻止運動の有様は「合浦の珠」「夢の浮橋」等の画冊にいきいきと画かれている。農民は天明・天保の飢饉の際における善政に報いようとしたほか、新領主による検地を恐れたものと思われる。
6月御城米出入に関する町方の出役・番人・掃除・普請等をとり調べ、城代に出す。
6月29日江戸町奉行矢部駿河守は、直訴嘆願運動の陰の指導者と目される佐藤藤佐を奉行所に召喚し尋問を行った。藤佐は法廷において幕政の腐敗と転封令の誤りであることを論述し、庄内農民の正当性を主張する。
7月12日転封中止、庄内領安堵の台命があり、16日早追で庄内に伝達される。士民は歓喜満悦し「お据り々々々」の歓声が天地を揺がす。10日間にわたり庄内一円にわたって大祝宴が張られる。続いて10月、藩主また転封中止の恩命を謝し、鶴岡・酒田両町に米1千俵宛、郷村8組に各1千俵宛、公領に2千俵、合計1万2千俵を頒賜する(荘内歴史年表)。また「御永城」を喜び、本間家2千両・伊藤四郎右衛門千両を筆頭に、酒田の3064人から5544両の寸志金を藩に上げる。
8月庄内の農民が、酒井氏の仁政に対し、報恩の誓約書を出す。(荘内史年表)
9月26日庄内藩御手船吉祥丸は荷物として秋味750本を分け積み、飛島の勝浦を出帆し、26日加茂に流され、秋味180本を失う。(飛島訟)
9月今町の遊里に小松屋菓子店が創業する。(荘内経済年表)
12月14日画家谷文晃が没する。78歳。文晃は近世の名画家。徳川田安家に仕えて江戸に住する。かつて白川楽翁の命により、『集古十種』を画き、また『名山図会』に日本海より望んだ鳥海山を画く。没後、孫の文中は永く酒田に遊んで画筆を揮う。
倹約令は文化・文政・天保と出され、年を追うに従って繁多な内容を加えてくる。
飛島浦の船2隻が破船し、水死者6人を出す。