天保13年(1842)

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天保13年18421月8日貞女しげが没する。生年不詳。飽海郡北沢村農伝兵衛の娘として生まれる。のち同村惣兵衛の妻となる。たまたま火災にあい、姑を救うために身を投げだしてともに焼死する。藩ではしげの行為を賞して、米1俵を遺族に与える。
4月酒井忠器は病いによって致仕、長男忠発(十一代)が家督する。(荘内歴史年表)
5月田川郡・飽海郡・由利郡73力村の幕領地の返上を命ぜられる。(上に同じ)
7月米会所掟書を定める。
11月元禄中より三十六人衆の月番を定め、大庄屋と連名で取り扱ってきた三十六人衆の月番を廃止する。
江戸留守居大山庄太夫らが藩主忠発の廃立と、藩政改革を企てる。家老以下多数がこれに同調し、松平春獄と山内容堂の力をかりて、公武合体の主力になろうとする。
町奉行が低物価令を出す。
酒田船の運賃値上げもあり、酒田湊増口銭免除運動は村山郡全体にかかわるものとして「郡中議定」となる。
船差配人の踏込(ふみこみ)着用を許す。打裂羽織の着用は許されず。
上の日枝神社の本殿を再建する。棟梁は御嶽菅原丑五郎金光で、彼の最高傑作といわれる。丑五郎は船場町に生まれ、二十歳頃、江戸に上り、宮大工としての修業を積み、御嶽の称号を許され、当地方に飛騨工法を伝える。彼が造ったものに平田地区飛鳥神社社殿、千日堂前のお不動さん、海向寺の粟島観音堂がある。弟子に須階与助・小川小太郎・石渡市兵衛・本登三四郎・斎藤知右衛門・阿部長五郎・松本利助・佐藤長兵衛・糸木亀太郎・佐藤松右衛門がいる。中でも上野曽根の本登三四郎は丑五郎より唯一人、御嶽の称号をもらう。丑五郎の特長は御幣柱(表柱)に社紋をとりいれ、綾彫を施すことであるという。わが国の建築流派には建仁寺流(甲良流・唐様)と天王寺流(平内流・和様)があり、下日枝神社の拝殿や山門は建仁寺流で、上の日枝神社の本殿や拝殿は天王寺流といわれる。
下内町で、天保お国替が本領安堵され、喜びにわきたっている下内町辺のありさまを描いた塞道の幕を作る。絵師柿崎金蔵・染師土門与三郎。町奉行屋敷や日和山・湊・町並やさまざまの人物が描かれており、当時の酒田町の様子や人々の風俗がわかり、その意味で貴重な歴史史料となっている。町並では普通は妻入で、中に点々と平入の豪商や大庄屋の家があり、酒田の特色をよく表している。
この年大豊作。